東條耿一の年譜           

1912年(大正元年) 4月7日、栃木県鹿沼に生れる
1926年(昭和元年)

高等小学校首席で卒業。

1927年(昭和2年) 8月30日〜昭和3年4月12日カトリック復生病院に入院。
入院中、レゼー神父より受洗。洗礼名フランシスコ・ザベリオ。
8ヶ月余りで退院。
1928年(昭和3年) 線香工場に就職。
1933年(昭和8年) 徴兵検査に不合格。自殺未遂。
4月21日、全生園に収容される(柏舎)
ひと月前に相談所患者として光岡良二(
妙義舎)が東大の哲学科を2年で中退して入園している。
5月4日、妹
立子が全生園に入園。
1934年(昭和9年) 「山桜」1月号の詩「寂寥、恋の短章」を皮切りに、以後文学に励む。
はじめ
環眞沙緒子を名乗るが、10月号より東條環にかわる。
5月18日北條民雄が相談所患者として入園(秩父舎)してくる。
北條民雄の日記に、12月27日、はじめて東條の名前が出てくる。以後、お互いを「いのちの友」と呼ぶ。
1935年(昭和10年) 一般文芸雑誌、詩人時代(福田正夫編集)、蝋人形(西條八十編集)へ盛んに投稿。
冬、妹立子と3,4日の一時帰省が許可されるが、東條は顔に病痕があるため、田端の「病人宿」に残り、神田の本屋などに行き帰省せず。
早春の頃、北條民雄の呼びかけで「文学サークル」が結成される。
7月18日 文子さんと婚約。東條のプロポーズを承諾(北條の日記)。          
「蝋人形」12月号「推薦詩集」に「ゆうぐれの中の私」「海亀」掲載。 

1936年(昭和11年) 「蝋人形」2月号「推薦詩集」に「葬列のあるくれがた」「羽子をつく」掲載。「蝋人形」3月号「推薦詩集」に「そんな夜」掲載。
3月末 妹立子の親友、
文子さんと結婚。 
「山桜」9月号「桐の花」より
東條耿一と変名。
「文学界」2月号に、川端康成の推薦で北條民雄の「いのちの初夜」が掲載される。
6月、北條民雄が2週間一時外出、自殺を仄めかすが徳島に帰郷して持ち直し帰院。
北條民雄はその年の文学界賞受賞。
1937年(昭和12年) 三好達治に師事する。「四季」の1月号、2月号、11月号に東條の詩が掲載される。
12月5日に北條民雄が没す。(北條民雄の最晩年の日記を写し、北條の自筆の日記と遺骨の一部を自分の傍に終生置く。)
1938年(昭和13年) 日戸修一など北條民雄の文学批判が起きる。
一時離れていたカトリックに帰心してゆく。そして、文学と信仰の両立に悩み始める。
1940年 (昭和15年) 妹立子が渡辺清二郎(1916年生まれ)と結婚。
義弟となった渡辺は、神山復生病院からきた敬虔なクリスチャンで東條の信仰上でもよき兄弟となる。
1941年(昭和16年) この頃より、詩を書かなくなり、専ら信仰生活。
カトリック誌「聲」に手記を多数寄せている。
園内、山の手と呼ばれる赤城舎に住んでいた。(天野証言)
光岡良二は、この年に社会復帰し、退園する。
1942年(昭和17年) 1月13日に妻文子が没し、9月4日に耿一も死す。(没30歳)
「山桜」11月号に遺稿「訪問者」が載る。
1953年 (昭和28年) カトリック愛徳会会報誌「いずみ」12月号に「癩者の回心」(手紙)が遺稿として載る。