山本暁雨さん
                         
                            書も俳画も書かれた暁雨さん

1898年(明治31年)静岡県に生まれる。

高浜虚子が、昭和10年に全生病院を訪問したことがありましたが、その時、虚子の講話に謝辞を、暁雨さんが述べています。(「ホトトギス」昭和11年1月号、全生病院、武蔵野探勝会) そのころすでに全生病院を代表する俳人だったのでしょう。

暁雨さんは、俳句の他に書、俳画、そして、全生歌舞伎の代表でもあり、歌舞伎にも精通しておられたようです。

多磨全生園俳句会の第二句集「芽生」1957年(昭和32年)発行、このごろプロミン治療がなされ、長い間苦しめられてきた病が癒えてほっとひと息ついた頃でしょう、この句集に次の句が収められています。


  ごろごろとこれのわが日日蜷の日日


  でで虫のゆめあやまちのなき歩み


  麦(ショウ)を舐めて芸無き身なりけり


  人の老いわが衰へも秋すでに 


  客去り手元のひとりに虫浄土


  病める眼に明月割れてまとまらず


  常闇の瞼に夜々の月育て


  常闇の瞼の月を祀りけり


  杖とるや無明の胸に月浮かべ


  癩といふ酷き罪負ひ秋日焼


  冬の鵙躍り現はれ眼癒ゆ


  蓑虫や老懶昼の夢結び


  人無為の広き肩幅冬の蝿


  静謐や葉牡丹朝の気を湛え
  

この年暁雨さん五九歳、ふつうの健康体であれば五九歳はまだまだ老いにはほど遠いものと思いますが、30年40年長い間病と向き合ってくれば、老いの衰えは健康な者より早いでしょうし、しみじみと衰えを感じるもと思います。

    人の老いわが衰へも秋すでに

人は老いるもの、療友もみな老いてしまった、自分もこの頃気力の衰えをしみじみと感じるという心境を詠まれたものではないでしょうか。「秋すでに」とは、秋は冬のまえですから、冬枯れのまえという死を意識しての句と思います。「冬のまえ」としないで「秋すでに」としたところが、この句の出色だと思います。一句に老いに沈んでしまわない明るさがあり、この表現こそが暁雨さんの真骨頂で、暁雨さんの「軽み」に通じています。暁雨さんの句の中で、わたくしが最も尊敬し、好む句です。
ここで暁雨さんらしいと私が思う句をすこし紹介しましょう。

  小言ぢぢ小言が出でて風邪治る

  ばば不在涼し涼しとぢぢ昼寝

  句兄弟菊兄弟と相むつみ

  人の世の縁を断ちたる裸かな

  恙なく坐り通せし布子捨つ

ところで、「多磨」誌に載っている暁雨さんの最後の句は、昭和四二年一月号に

  老懶の背につぶやけり秋の風

  老懶の硯乾きて秋の風

  柿もぎしあとの広空鳥渡る

この3句が載っています、以後には句がないので、これが絶詠なのではないでしょうか。

懶は怠けるの意。最後の「柿もぎしあとの広空鳥渡る」は、柿をもぎ採った後の空に鳥が渡ってゆくという写生句でしょうが、ここにはつよい望郷の思いが込められていると思います。仰ぐ空はきっと故郷の方向へ向いていることでしょう。療養生活の中で「軽み」の境地を拓いていた暁雨さんにして、最期に残るのは、やはり、望郷の思い、止みがたかったのではないでしょうか。

国立ハンセン病資料館で、企画展「こころのつくろい」に暁雨さんの書が展示されていました。「今年異例腸先断不是蝉哀客意悲」は、和漢朗詠集の中の一句です。

今年(こんねん)は例(つね)よりも異(こと)なりて腸(はらはた)先(ま)づ断(た)つ、これ蝉(せみ)の哀(かな)しきのみにあらず客(きやく)の意(こゝろ)悲(かな)しきなり

と読むのでしょう。戦後の療養所は、プロミンによる治療によって病気は克服されましたが、「らい予防法」はそのまま残りましたので、園内は、「労務外出」など認められ、そのため貧富の差がでて、秩序が乱れた時期がありました。暁雨さんも、療養者として高い見地にいる人でしたが、園内の混乱に、晩年悩まされていたことがこの書からも窺うことが出来るように思います。