東條耿一君ヲ深悼ス

                 全生詩話會

                 追悼記
                   東條耿一氏を憶ふ

                                  伊東秋雄

 永年指導と交誼を賜ってきた東條耿一氏が逝去された。九月四日午前九時頃であった。亡くなられる前日、私が枕頭に見舞つたのだが、「もう顔が見えない」とちからない聲で話されたが、まだまだこのやうにならうとは思はなかった。それにしても愚かしい私には何も御恩返しになるやうな事も出來なかった。ただ一つ自分の拙ない作が、四季誌に推薦されそれを見て行って貰った事に幾ばくの安らぎを感ずるばかりである。
 私が氏を知ったのは昭和十二年頃だつたと思ふ。私は入園後間もなく詩に興味を持ち、當時の詩話曾の人々を遠くから羨望と尊敬を以て眺めてゐた頃で、内田氏や東條氏の体躯の大きい、がっしりとした風貌を眺めた時、何んとも云へぬ信頼感が勃然として湧きあがってくるのを痛感した。入園後一年程経て私は現在の収容病棟附添となり、作業を同じくしてゐる田中兄などを通じて、本格的に東條氏と交誼を結ぶやうになった。當時氏の作品は四季誌や文學界などに盛んに掲載されて居った。私が時折り訪ねて行くと、氏は大抵何かやって居られた。机に向って願書とか、原稿とかに熱中して居られるが、どのやうな場合でも、本営に心よく迎へ入れて呉れた。親しみのある温い態度に、私は私の方から幾度か、あまり仕事の邪魔をしてはと躊躇したか知れなかった。すると氏は、私のさうした氣使ひを知って、叱りつけるやうに小言を云ふのだった。さうした溢るるやうな温情に對して、私は涙の垂れるやうな信頼と親しみとを幾度味はったか知れない。氏の作品や人格に就いては、私如きものが云々するのは余りにも軽卒なので、又いづれ先輩の方々に麗筆を仰ぐとして、此處には私なりの氏の風貌をいささかなりと誌して面影を偲びたいと思ふ。
 私は人間としての氏も好きであったが、氏の作品もまた好きであった。やはらかく、ぬくみのある詩はしみじみと、心の底に迫るものがあった。やはりその人の作品は、その人を無言のうちに語ってゐると思った。ここ一二年體も大變弱られ眼の方もあまり良くなかつたので、書く事はしないやうだったが、時折績んで貰つてゐたやうだ。三好達治著、一點鐘が、絶版になって求める事が出來なかったのを酷く惜しがってゐた。典雅な三好先生の作品などが一番好きであったのではないかと思ふ。又氏は一頃、三好先生を師としてその俊敏を認められたものだったが、その後種々の事情で最近はその交誼も絶たれてゐたやうであった。私はよくその話を聴かして貰ったが、實に惜しい事であったと思はざるを得ない。氏に今少しの健康があったらと、しみじみ思ふのである。でも氏にとってはさ程惜しいものでは無かったのかも知れなかった。氏はそれ以上のものを得たのだから少なくとも私にはさう思へるのである。あの當時(三好先生に師事してゐる頃)から氏には、しきりと心に動揺があったやうに思ふ。それは單なる名声の為とか、物質の為めとかでは無論なく、純一なる精神の安置所を訪ねてであった。如何にして魂の安住を得ようかと、歌に迷ひ、句に彷徨ひ、生活を眞劔につきつめた態は、はた目にも痛々しい程であった。だが氏は遂に目的を得た。最後に行き着いたのは、聖なるカトリック信仰であった。そこに以前にも増して落ち着いた態が見られ、深々と柔らかなものに埋まってゐる安らかな姿が見られた。今にして憶へば、僅か五年程の交誼ではあったが、私は氏に依って、人生への指針を教へられ、ちからづけられた事は、海山にたとへられぬ程大きい。亡くなられて未だ一七日にも充たぬ今日此頃では、未だに亡くなられたとは思へぬ何かがある。やがて日が経るにつれてしみじみ寂しさを味はふ時が必ずくるに違ひないと思ふ。その時には又様々な思ひ出を書いて慰めとしたい。






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