忍從の謝肉祭(カアニバル)

  騒雨(あめ)にがつくり首垂れた軍鶏の姿を
  俺は、俺の姿の中に見たくないのだ

  腹を見せて浮かんだ病金魚(きんぎょ)の呼吸を
  俺は、俺の息吹の中に識りたくないのだ。

  よしや腐れ爛れた四肢であつても
  ぎりぎり蝕まれる病肺に拍車を驅けよと
  俺は、俺の惨めな容態(すがた)を投げ棄(う)つて
  おお、傲然と反りかへるのだ。

  譬へ、解剖台にメスは閃き待たうと
  いかつい悪魔の横顔をぐわんと擲(は)りつけて
  俺は、傲然と嘯き、
  冷たき歳月の距離(デスタンス)を睥睨するのだ
  そして、最後の血潮の一滴まで
  灼熱と燃え狂ひ、
  俺は、俺の肉体もて捧ぐるのだ
  呼呼・・・・・忍從の謝肉祭を・・・・・・・・・・・

              
(昭和十年「山桜」七月号)



東條は、一時神山復生病院に入院していたことがあるので、そこで、とても楽しい謝肉祭を経験しているのではないでしょうか。謝肉祭の道化的な愉快な仮面劇は、苦難な療養生活の良いレクレーションになるので、いかにもレゼー神父が奨励しそうである。
しかし、この詩に詠まれた全生園の謝肉祭は、なんと皮肉で屈辱的なカーニバルであろうか!軍鶏、病金魚には、東條のどんな思いが込められているのであろうか。
「軍鶏」は、全生園の中に、ファシズムの影が忍び込んできていることが詠み込まれているように思います。
「病金魚」には、癩による病死は世間的に金魚のように軽いもの、社会から、同じ人間でありながら、易々と療養所というところに排斥される、「金魚鉢の金魚」というイメージで金魚を取り上げているのだと思います。病める身を「病金魚」に隠喩させている、このメタファーの掛け方がたいへんに鮮やかです。
しかし、なんと全生園の謝肉祭は忍從的なのだ!東條の憤怒が聞こえてきそうである。
     おお、傲然と反りかへるのだ。
「傲然」という言葉は、北條民雄が最も愛し、よく使った言葉だそうである。東條も同じように好きな言葉だったのでしょう。
     譬へ、解剖台にメスは閃き待たうと
戦前の当時から、患者が亡くなると、ライ病の研究と称して、解剖が通常なされていたようである。
     
東條は、この療養所という社会の中でしか生きることが許されない、人間の尊厳を傲然と謳いあげているのである。





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