槍    
       ――― 私の恐迫観念症より ―――

  ごろりと横になると定つて
  私の腹を狙う鋭い槍がある

  何処の誰奴がどう狙ふのかは知らないが
  研澄まされた穂尖がピカリ――――
  ピカリ――空間に閃き
  見えない、そ奴の、殺気立つた眼が
  凝乎と私の腹を凝視しているのだ

  私はもう怖ろしさに全身がおのゝいて
  無我夢中に跳起きやうとするのだが
  一寸でも動いたら、その瞬間!!
  槍は私の腹を貫ぬくだろう。

  全身の何処が痛んでも
  腹にぐつと力を入れて耐えるものなのに
  その腹を突尖されて
  一体、何処で痛みに耐えよう

  槍は秒速の隙も興へず、ヂリ、ヂリと
  私の腹を狙って
  ―――― 近寄り
  ―――― 遠退き
  尚もギラギラと空間に閃いてゐる

  私は何に縋ろう、誰の力を求めよう
  然し、幾ら悶掻いたとて、歯痒んだとて
  この場合どうなるものか ――
  私は悲しく諦めて静かに眼を閉じる
  悲しくも諦観し、眼を閉じれば
  おお、ありありと
  名も知らぬ美しい花が咲いて繞る
  仄かなるその香が馥郁と私を包んでめぐる…
  おお、繞る……

                     昭和10年 「山桜」12月号より


らい菌は神経の中に深く進入する。そのため、神経痛のような烈しい痛みに、時どき、襲われるようです。神経に入った菌は、皮膚の触覚をなくして、釘を踏んでも痛みがなくて分からないらしい、傷が重症化するのである。
この詩は、ハンセン病の神経痛の痛みを「槍」に置き換えて、槍で突かれてしまうかと思うほどの痛みと恐さ、そうした恐迫観念に陥ると表現しているのだと思います。

しかし、諦観の先にある、
  名も知らぬ美しい花が咲いて繞る
ここの一行に感動する。
特に、「繞る」めぐるに、肉体感覚というものがある。痛みが去ったという肉体感覚のように受け取りました。
「美しい花」とは何でしょうか?
私は、烈しい痛みの去った時にある恍惚感、マラソンの後などふうと気持ちよくなるβエンドルフィン的な恍惚感のように思いましたが、違う解釈も出来ると思います。
  仄かなるその香が馥郁と私を包んでめぐる…
東條には、そのころ東條の求婚を受け入れてくれた婚約者、文子がいたので、その文子によって生きることの痛みを馥郁と包んでくれる、そういう人がいるんだと、文子への思いを詩にしたのかもしれません。

妹のせつ子さんの歌に、

  こらえよときびしき兄の眼の光涙ぐみつつ痛みに耐えぬ  

という歌があります。岩波新書「木がくれの実」より。  
東條は、寡黙な人であったそうですから、妹の辛そうな嘆きにも、痛んでいる時は耐えてそれが過ぎるのを待つしかないと、厳しくいさめたのでしょう。東條は、激しさを内に秘めた人でした。


    
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