「タダの代償」
「ハンセン病文学全集 4 記録と随筆」皓星社
「無料(タダ)の代償」津田せつ子著より

 頭のてっぺんから、足の爪先まで、生きるための必需品はすべて支給品、タダの生活を続けて31年。
少女期から初老に入りつつある私に、タダの非情さが重くのしかかっている。
 著者の名は忘れたが「タダほど怖いものはない」という文章を読んだことがある。
私もタダの生活ほど恐ろしいものはないと思う。何か大切なものが、体内から失われてゆく。きざな言葉だが、本当に人間性の喪失である。安易で何の社会的義務も責任も無い生活を続けていると、人間としての感覚がまひしてくるのであろうか。
 大切なものが失われてゆく。ではそれは何であろうか?いつも考えて見るのだが、言葉として端的に言い表せない。何か違っているのだ。不作法な生活態度か。感謝の気持ちの不足だろうか。否、もっと恐ろしいのは無感動なことである。ものごとに感動するみずみずしさを失っているのだ。すべてに、あまりに無感動である。この無感動さが、感謝する心を、礼節を失わせるのではないか。
 タダの生活の代償として、私たちが支払っている肉体的精神的な苦悩はあまりに大きい。
そしてまた、そこからこの無感動が生まれてくるのだ。この逃れることの出来ない深い苦悩のるつぼの中にいると、やがてそれに慣らされ、すべてがしらけて見えてくるのか。
 よく社会復帰する人が、在園中の生活を何年間の空白と言う言葉を使って表現している。
空白と言う言葉が示すように、生存競争の激しい社会の波の中に身をさらさない現状の生活は、まことに砂中に埋もれている貝のようなものかもしれない。
 だが、最近入園してくる人にはこの園内も、さして社会との隔たりを感じさせないようだ。また、療養所という感じを受けないだろうと思う。療養所内がひとつの町のような観を呈し、軽症な者は労務外出をし、残るものは内職に励むと言う現状である。
 どんな立場に置かれても、額に汗して働くことは尊いことかもしれない。だが、医療と生活のすべてを賄われ、療養している所内にあって、何の制約も受けずに、公然と労務外出をしていることを、公認している当局の態度を私は不可思議に思う。療養生活が長く、療養所ボケしている私の固い頭にはこの事実をなかなか納得させることが出来ない。
 私がお預かりして、お世話させていただいている子供の一人S子は、現代っ子の標本みたいな敏感さで、合理的で抜け目がないが、そのS子が時どきこんなことを言う。
「おかあさん、私、他の病気にならなくてらい病になってよかったわ。ほかの病気だったら、お金がかかってかかってたいへんだもの。ものすごく取られるのよ。ここでは何でもタダだし、お小遣いはくれるし・・・・」
私は返事のしようがなくて苦笑する。
 この子供たちは、すぐ治って帰れる。タダの生活が心身を侵すほど園内にはいないのだ。こんなことを無邪気に子供たちが口にするほど、ハンセン病の治療は進み、療養所は変わった。医師の指示を忠実に守り、治療を続ければ、3,4年で退園できる。
 子供たちが明るいのは、癩に対する過去の恐怖を知らないことや、春、夏、冬の休暇に帰省し、家にゆっくり落ち着くこともできる。外出も自由なので、閉じこめられた感じがしないからであろう。
 現在、ここが永住のすみかと思って入園してくる人は誰もいない。このことが古い療養者と、新しい療養者の根本的な生活態度の相違である。私たちのように古い療養者は、誰もが静かで平和な療養生活を望んでいる。現在の無秩序な、強いもの勝ちの療養
所を嘆く声は多い。
「時代が変わったから・・・・」
人々は簡単に、この一言で片付ける。時代?それだけだろうか?私は重病棟を除く、一般舎に住む人々の日常生活に、園当局がもう少し深い理解と注意を払っていただけたらと思う。労務外出が、他の人に与える心理的な影響を、園当局の方々は考えられたことがあるのだろうか。
 平和とは秩序ある静けさだと言う。本当に平和で静かな療養生活を取り戻すには、園内に正しい秩序が打ち立てられなければならない。それにはまず、患者自身、療養する姿勢を正してゆかななければならないことが基本であろう。こんなことを口にすると冷笑されかれない。私の考え方は時代的な感覚がずれているのであろうか。
“兄弟たちよ、各々召されるままに、神に在りてこれにとどまるべしーコリント前書七の二四”
 この短い聖句が示すように、私は私に課せられた道を、真実に進むよりほかに道がな
い。
 タダの代償、それは私にとって重い十字架である。


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津田さんの、他の作品を読んで思うのだが、たいへんに明晰な方だと思います。
その津田さんが、この作品だけは歯切れが悪い。
津田さんがこの文章を書かれたのは、「タダの生活を続けて31年。」ということから推測すると、1933年に多摩全生園に入所しておられるので、1964年(昭和39年)に書かれたということになる。
この当時、療養所には、生涯この療養所で暮らさなければならない人と、完治して退園できる一時療養の人と二通りあったらしい。
生涯療養所に暮らさなければならない人とは、治療が遅れて、後遺症の残っている人なのであろう。
後遺症の残っていない人は、「空白」(治療)の後、ハンセン病を患ったことを隠して、社会へ戻っていかれたのであろう。
一時療養の人が、労務外出をして、社会の報酬を得ることが、いかに、生涯療養しなければならない人の精神を圧迫したか、静かな療養生活を乱されるのか、津田さんは、悶々と苦悩されている。
戦後の経済復興と社会情勢の落ち着き、そして、昭和28年の「らい予防法」改正以後は、全国の患者が連帯して生活改善の闘争など社会保障制度を充実させてゆき、療養所の暮らしも生活的には安定していたのでしょう。
しかし、それからの療養所において、いかに生きるか、この命題に津田さんは深く苦悩をされている。
どこから、無感動が生まれるのか、なぜこんなにもしらけてしまうのか、「私もタダの生活ほど恐ろしいものはないと思う。何か大切なものが、体内から失われてゆく。きざな言葉だが、本当に人間性の喪失である。」と、悩んでも悩んでも、答えが見出せないでおられる。
自分の存在を社会からまったく消し去って、名前も変え、連絡を絶え、自ら外との係わりを拒み、療養所に暮らす。その生活を「タダの生活」と自ら卑しめる。なんという悲劇だろうか。
生活的には安定していても、療養所において、「よく生きる」ということは、一般社会で「よく生きる」ことよりとても難しいことであったであろうと思う。



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