明石海人のことなど               
「ハンセン病文学全集 4 記録と随筆」皓星社
明石海人「歌日記」より

  すでにして葬のことも済みぬかと父なる我にかかはりもなく

 子供が腸炎で死に、もう葬式も済ませた。あなたには帰ってもらわない方が良いという父や母の考えで、わざと今まで知らせなかったと言う妻の手紙を読んでいるとき、家を取り囲む一面の紫雲英畑には、ひっきりなしに囀る雲雀の声が続いていた。・・・・・・・・・
 子供の病気のことは、何も報せて来てなかったので、急に死んだと云われても、どうしても本当のような気がしなかった。にも拘わらず、私は何となく腹立たしかった。父たる自分の知らないうちに死んでしまい、葬式まで済んでいる。こんな事があってよいのだろうか。然も、事はすでに行われてしまっている。何たることであろうか。父や母の気持ちはよく分かりながら、ぢりぢりと湧いて来る怒りをどうしようもなかった。父も、母も、妻も、自分自身さえも憎らしかった。やがて、再び、妻の手紙を取り上げて、何度も読み返したが、読んでいる中に、長い看病とそれに続いての悲しみに打ちひしがれた妻の姿がまざまざと感じられ、はてしのない追憶に、いつか冷たい涙を流していた。
(新かなで打ちました。)

〜    〜    〜     〜     〜     〜


明石海人は、どこからどこまでも詩人、歌人であったと思う。

海人には二人の娘がいた、その一人娘の死を知らされなかった、悲しさと憤りが鮮烈に詠まれていて、胸を打たれる。
一人の娘さんは存命で、つい最近まで、自分の父が有名な明石海人であるということを知らなかったようです。
 
ほんとうに、海人はやさしい人だったのでしょう。子供の死を知らされなかった、情けなさ無念さから、やがて、それを知らせてきた妻への同情にかわっていく・・・・読んでいて、胸が詰まりました。

ハンセン病では、この病気では、「生きているうちに2度死ぬ」と言われいるそうです。
一度は、病気を宣告されたとき。
二度目は、失明したとき。
手足の知覚神経が犯されているので、失明すると、ほんとうに、不自由になられる、想像を絶するものがあるようです。
明石海人も昭和9年、34歳で失明している。亡くなったのは昭和14年、腸結核であった。
北條民雄も死因は腸結核、昭和12年、23歳の若さである。
北條民雄も明石海人も昭和10年頃から世に知られるようになり、長島愛生園の明石の出現を「山桜」でも、喜ばしいこととして、彼の短歌に刺激を受け、全生園の文芸サークルは北條民雄を中心に活発になっていくのである。

風見治さんも、半眼である。3,4年前、片目を手術して、何とかいま片目でも、ものを見、読むことが出来る。
この片目がいつまでもつか、それが一番気がかり。
らい予防法の改正、熊本裁判の国家賠償の後の、療養所および患者を総括をする意味で、一つの小説を書かなければならないという、風見さんには使命感のようなものをもっておられる。
何より、目が気がかりである。



眼疾のひっそりしたる白式部    しゅう


   
← 戻る    次へ →

top page