尹東柱の

    序詩

  死ぬ日まで空を仰ぎ
  一点の恥辱なきことを、
  葉あいにそよぐ風にも
  わたしは心痛んだ。
  星をうたう心で
  生きとし生けるものをいとおしまねば
  そしてわたしに与えられた道を
  歩みゆかねば。

  今宵も星が風に吹き晒らされる。(伊吹郷訳)

1941年に書かれている、尹東柱が25歳の若さだ。この詩は、高校の教科書(筑摩書房)にも入っていて、茨木のり子さんが、「若くないと絶対に書けない清冽な詩」と書いている。

1945年に、福岡の檻房で獄死するのだが、その自分の背負う運命を予感しているような詩であることに驚かされる。

  死ぬ日まで空を仰ぎ
  一点の恥辱なきことを、
  
日本の植民地化され母国語を奪われ、日本語の教育をされても、一編の詩も日本語では書いていないと、尹東柱は胸を張るのであろう。

  そしてわたしに与えられた道を
  歩みゆかねば。

この詩を書いたすぐ後に、日本へ留学してきているのだ。
「わたしに与えられた道」とは、尹東柱は何を考えていたのだろうか? 尹東柱の親は、医者になることを望んだが、文学の志を捨てられなかったらしい。
日本へも当然、文学を学びに来たはずである。
「日本人作家では、立原道造、三好達治、北原白秋、小川未明などを読んでいる。」と、生い立ちに書かれている。
尹東柱も、東條耿一と同じく、三好達治の詩を好んでいたのである。断想(1)に、東條の詩と文体的に似ていることを、先ずはじめに書いたが、二人は、文学において共通する志向をもっていたと言うことである。
東條の資質にも、尹東柱とおなじ、清冽なものを持っていると私は思います。
ただ、東條の場合、それに徹することが東條の環境の中でできなかった。東條は、あまりに過酷ななかで詩を書いていたのだと思う。尹東柱の「序詞」に、東條の「鞭の下の歌」を添えたい。

       鞭の下の歌

  ちちよ ちちよ
  いかなればかくも激しく 狂ほしく
  はた切なしく われのみを打ちたまふや
  飛び来る鞭のきびしきに耐え兼ね
  暗き水面の只中を泳ぎ悶轉(まろ)べど
  石塊(いしくれ)の重き袖は沈み 裳裾は蛇の如く足に絡みて
  はや濁水はわれを呑まんとす
  おお わがちちよ
  なにとて おん身 われを殺さむとするぞ
  死にたくはなし! 死にたくはなし!
  卑しく 空しく いはれなき汚辱の下に死にたくはなし!
  好みてかくも醜く 病みさらばへるにあらざるを
  おん身の打ち振ふ 鞭は鳴り
  鞭はとどろき
  ああ 遂にー
  鼻はちぎれ 額は裂けて血を噴けり
  おおされどわれ死なじ 断じて死なじ!
  たとへ鞭の手あらくなりまさり 濁水力を殺げど
  おん身の心やはらぎ 憐情に飢ゆる時までは
  おおその時までは 血を吐き 悶絶すとも
  おん身の足下に われ泳がん 泳ぎて行かん。

             (昭和十二年「山桜」六月号)