尹東柱の獄中の2年間は、詩を書いていないのか、書いたけれど残っていないのか不明だが、1942年の、立教大学時代の5編の詩が、残された最後の作品である。福岡の獄中の調査が、進んでいない、闇の中に未だに押し込められている。

韓国は、日本の植民地治世下にあって、日本語を強制的に教育された。尹東柱は、母国語で最後まで詩を書いた、日本に留学で来ていても、日本語で詩を書くことをしなかった。それは、当然ことだろう。しかし、その為に、独立運動をしたという嫌疑で、検挙され、命まで奪われてしまったのである。
それにしても、尹東柱は、なぜ、思想弾圧の厳しい日本に来たのだろうか?
キリスト教の信仰から、はじめ、立教大に入学しているが、立教は、昭和17年には、厳しい軍の圧力が掛かっており、尹東柱も、入学間もなく頭髪は丸坊主にされている。
あまりの軍の圧政に、失望をして、京都の同志社に、日本に来たその年、すぐに編入をしている。京都では、つかの間、日本人との友人にも恵まれたようだが、まもなく、検挙されてしまったのである。
新渡戸稲造の、戦争中の、キリスト教と武士道というのがあるが、立教大は、イギリス聖公会を柱にしているために、国王を容認する教派であるため、天皇崇拝の校風があったのだろう、すすんで軍部と関係をもっていたようだ。

北條が天皇は偶像であるというようなことを日記の書いていますが、東條も同じようにトルストイやドストエフスキーを読んでいたのですから、同じ考えをしていたでしょう。しかし、東條の資質としては、新渡戸と同じ武士道的な考えも持っていたと思います。徴兵検査で落とされた、日本人としての失格を意識したでしょうし、天皇制を批判する眼はあっても、相反する矛盾したものが、多くの若者と同じように抱いていたのではないだろうか。あの戦争の武士道は矛盾しているもののように思います。東條の、「国旗」という詩は、私は、矛盾したところがよく出ているように思います。
尹東柱という、清明な青年の命を奪った日本人の責任は逃れようもありませんが、そのことを顧みず言えば、尹東柱は、純粋に、ひと筋に、キリスト者として、朝鮮人として、誇りを持って生きることが出来た。神に愛されていると言うことを疑うこともなかったでしょう。それは、ある面、幸せであったと思います。
一方、東條は、ハンセン病という最も重い受難をなぜ自分が受けねばならないか、何故ここまで貶められ、苦しまなければならないか、キリスト者として神との間で、内面の葛藤があったことでしょう。その上に、戦争の思想弾圧まで重くのし掛かってくる。どこにも己の気持ちの称揚するところがない。身もこころも沈むばかりだったろうと思います。私は、その東條の苦悩の中で書かれた詩を尊いと思うのです。
もちろん、尹東柱の清明な詩も愛するものです。


国旗 - 東條耿一 -

白地を浸し
日の丸を抜き
露ら 群をなして
光りぬ
光りぬ
萬象をひとつに孕み
瞬間を燦と光りぬ
静づ静づと竿を濡らし
こころよく肌へをめぐり
露ら 虔しく 鮮やかに消えぬ
ひとつ、
またふたつ、
(悲しきか)
(あらじ)
(嬉しきか)
(あらじ)
日に遭ひて更に光りぬ
風勁ければ
彼等一瞬にして麗はしく死絶へぬ
(はた風の吹かざるもまた・・・)
こは何ならむ
露ら知らじ
とこしへに露ら知らじ
―ただ日の丸の紅きを知るのみ。

(昭和十二年「山桜」十二月号)
尹東柱と東條耿一の断想(2)