東條耿一が文学について次のように書いています。

    義務の文学
 室生犀星は復讐の文学と云つた。また或る詩人は、ああ現實は復讐されねばならない。と詠嘆して復讐の詩作を宣言した。
然し私は負担の文學義務の文學と云ひたい。現實はもつと負担されねばならないのだ。われわれ人間の、現實への負担は極めて大きい。現實はわれわれ人間に對して益々負担を過重し、偉大なる義務を要求してゐる。
人間は生れ乍らにして負担を輕くする義務をもつてゐる。宇宙は負担に滿ちてゐる。われわれは義務の哲學、義務の思想、義務の行動を採らねばならない。
私の詩作は負担である義務である。さうして私が私の義務を遂行し了はつた時、私は死ぬであらう。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 現実は負担が大きい。その負担は、自分で軽くする義務があるんだ。東條にとっては、そのための文学である。
その基本的なスタンスは、北條も東條も変わらないと思う。
文学の最も基本の形、自己表現、生きるための、自分を生かすための文学でしかなかった。それは、療養所の多くの人も同じだろうけれど、だから、私は、ハンセン病文学に惹かれるのだけれど、その厳しさが、東條も北條も並外れていたのではないでしょうか。

『私の詩作は負担である義務である。さうして私が私の義務を遂行し了はつた時、私は死ぬであらう。』

東條がこの「義務の文学」を書いたのは、昭和12年だけれど、この頃は、北條民雄と共に「宗教はアヘンのようなもの」と、キリスト者でありながら、恣意的にカトリックを遠ざけている頃だった。
東條は、詩作によって、「らい」という過酷な受難を遂行し了えると言っている。そして、「死ぬであろう」というとここまで東條が書く意味は、この「死」には、「死して後生きる」、「再生または復活」の意味が込められているのであろう。

東條は、東條環の時代から、詩に表現するものが他の療養所の詩人と違う、療養所の中の環境を詠むのではなく、ひろく社会に向けて詠みあげているように思う、「らい文学」に収まることに耐え難かったのではないだろうか。
東條の詩の特徴は、象徴詩、その時代の先取りをしているように思う。東條の知性が、療養所の狭い世界のことのみ、きゅうきゅうと詠む、姿勢を許さなかったのだろうと思う。

北條民雄は、面識のない川端康成に突然手紙を出していますが、川端康成は、自分の名前に誤字があっても、それに捉われず、北條が、療養所から手紙をよこしたということで、この、北條の文学の必要性を読み取っています。
北條も、はじめ川端先生の期待に添いたいとその一念で書いていますが、だんだん、川端先生にどう評価されようとこれしか書けないというところにどんどん突き進んでいきました。
ただ、北條の作家活動は、たった4年間だった。あまりにも短い。道半ばで、北條は命尽きてしまっている。
その点、東條は、全生園で10年間、詩を書いていたことになる。北條亡き後、5年生きている。
しかし、その5年間も、無口な東條にとっては、私には北條を亡くして一人きりの、こころをすべてさらけ出し、純粋に文学を語る友のない中、たったひとりの厳しい詩作の環境となり、東條の、詩に詠む世界が、どんどん狭く療養所の中に限られてゆく、そのことを私は、とても寂しく思うのです。
東條の、昭和15年11月号の山桜に

  詩心迷ふ

言にいひてさびしきかな
もだしゐてなぐさまぬかな
いづれ劣らぬまごころなれば
あはれわが筆に水ふくませて
鉢の萬年青を洗ふかな

というのがあり、昭和16年2月の「枯れ木のある風景」という詩の以後は、山桜に詩を発表しないで、カトリック月刊誌にたくさんの手記を書いている。
これを、どう理解するか・・・、私は、もはや東條には、詩作によってでは、文学では、現実の負担を軽くすることが、出来なかったと理解する。
カトリックに深く、深く一すじに歩むしか、東條は、救われる道はないと思ったのだと理解する。そういう、療養所の暗い厳しい文学環境だったのだろう。それは、療養所だけではなかったかもしれない。日本国中、思想弾圧の厳しい時代で、自由な表現なんて出来なかった、国中の文学者にとって氷河期に当たっていたのだから。
もうすこし、良い時代に、東條に詩を書かせてあげたかったと痛切に思う。