療養所文芸の暗さに就いて
                    於泉信雄

 私は今迄に幾度となく療養所内の文芸があまりにも暗過ぎるといふ言葉を耳にしてゐた。偶々日戸修一氏の「療養所文芸への希望」というふ一文を読みその理論の根底が又もその「暗さ」にあることを識り、局外者の我々文芸に対し屡々陥り易き誤謬に就いて一言述べ、且つその暗さの依つて来る原因を究明してみたいと思ふ。
 私の先づ言ひたいことは我々の文芸に対する社会人の認識が余りに単純且つ安易なものであるといふことである。それらの理論が常識の域を一歩も出てゐないやうな場合が多々あるやうに思はれる。そしてそれらの人々は我々の文学を癩文学といふ既定概念の上に据えて毫も疑はず、それより自己の理論を演釋し人道的道徳的且理想的観点に立って、傍観者としての態度を改めず我々の文学の中に一歩も這入つてこないばかりか、自己反省もせず、何の苦しみもなく、いや自己の苦悩は棚に上げて置いて我々に接してくるやうに思はれてならない。これは私一個人の偏見だらうか。大たい癩文学といふ概念そのものからして至極危かしいものである。果たしてそのやうな文学の位置が文学論上許さるべきものかどうかさへ疑問である。
 社会人の我々の文学を見る眼は、一人の紳士が路傍の乞食を見る眼と同じ同情や憐愍の情のみが先に立ち、その内にある共通普遍の人間性を認めることを忘れてはゐないだらうか。確かに我々は種々の方面から社会人に対して憐みを乞ふたり同情を欲してゐるかも知れぬ。が文学の領域にまで斯くの如き態度を推し拡げられたくない、我々が文学するといふことは一般社会人が文学するといふことと尠しも変わりはないのである。只我々の肉体が癩に罹つてゐて限定された生活を余儀なくさせられてゐるといふに過ぎない。その意味に於ける「癩文学」なる定義ならば或は許されるかもしれない。
 扨て「暗さ」であるが「人間世界から受ける癩患者への不当な感情的憎悪が我々の文学を暗く、時には陰惨なものにしてゐるに違ない」と断定した日戸氏の見解は余りに適外れの為暫く措き、我々は自分を捨てられない所に我々の持つ根本的な苦悩があるのだといひたい。我々は如何にしたらこの限られた療養所内の生活を自己のものになし得るか、そして如何なる方法に依つて自己をこの生活の中にうち建てる事が出来るだらうか、といふことに腐心しているのである。我々の文学は、我々がこの生々しい現実にぶつかってゆく苦闘史である。その「暗さ」は絶望感や自我の喪失に依つて醸し出されるのではなくして、実に我々の苦悩の故であり、血みどろな苦闘の必然的結果である。そして如何なる意味からもこの「暗さ」は排斥される性質のものではなくむしろ良き指導の許に助長されて然るべきことであると思ふ。我々の中の一人として、希望ある、光り溢れた生活を克ち得たいと願はない者はないであらう。明るく朗らかに人生を讃美し謳歌したいのは当然の事ではある。が然し我々はその春を頒へる前にどうしても解決しなければならない重要な問題に今突き当つてゐるのだ。それは日に日に腐敗してゆく肉体を抱へ、頽廃と無気力の泥沼に呻吟するこの現実の貌を如何にするかといふことだ。がそれにも拘わらず我々の一番懼れてゐること、それは我々が癩病でありながら癩病を忘れること、籬の内に居り乍らその籬を忘れること即ち我々が現在生きてゐる現実を忘れてはいないだろうか、といふ事である。そしてそれは現実への敗北であり、自我の喪失ともなるのである。我々は斯くなることを極度に警戒してゐるのである。どうして「平面的感傷や厭世的絶望に逃避して、その心的世界を唯一のものであると信ずる」ことが出来るだらうか我々の生活はこの現実とかい離した時その意義を失つてしまふのだ。「能ふ限りの苦痛な経験からのがれ淡い空想の世界へ住む」などといふことがどうして出来やう、我々はより大きな苦痛を欲してゐるのだ。苦悩は天才の特権であるといふ、我々はまだまだ苦しみが足りない、壁に頭をぶつけるどたん場までゆかねば駄目だ。
 ドストエフスキイやニーチェを引き合いに出す迄もない、我々は我々の手で我々の途を伐り拓いてゆかなければならない。我々の文学が「暗い」といふのも決して自我を捨てて絶望やニヒルの世界に迷ひ込んでゐるからではない。或る時は我々の頬にもシニカルな色が濃く現はれることもあるだらうし又ディレツタニティズムに陥ち入つてゐることもあるだらう。だがそれはまだ我々の生活に光りがない為である。いや光りがまだ探し求められない為に外ならない、約言すれば我々は暗黒時代ともいうべき世紀末的苦悶のうちに蠢いてゐたのでもある。がこの一二年に於ける療養所文芸の動きは我々に仄かなる光明を暗示してゐるかのようにも思はれるのである。徐々にではあるが順当な発展を遂げつつあるやうである。一ツの転換期乃至過渡期と見ても差し閊へないだらう、今迄の政策的、機関的文芸から脱出してそのヘゲモニーは我々の手に収められてゐる、そして自己の文学として力強い意欲を見せるやうになつてきた。しかしまだ我々のものとなつてからの文学した期間は極く纔かのものでしかない。我々はまだまだ自己認識自己検討に費した労力は充分とは云へないのである。一部の人々の間に見られるこの態度がやがては療養所文芸に携わる一般の人々にまで浸透し、真に我らの文学を建設する日が、近き将来と言ひたいがまだ途は杳い、しかし必ずその目的の達成せられん日の来ることを疑はないのである。我々の生活は苦悶の連鎖であるといふ。假令我々の前に明るい陽光の照る日は来なかったにしろ、我らがそれを追求し意欲してゆく生活態度は決して無意味なものにはならないであらう。
 「暗さ」を取り除くことのみ汲々としてはならない。余りに「光」を求むることのみ急であつてはならない。我等は深長なる考慮のもとに不断の思索を怠らず、慥かりと大地を踏みしめて、この現実を凝視しその中に自己の真の貌を発見してゆかなければならない。「汝の立つ所を深く掘れ。そこに必ず泉あり」と教えるニーチェの後に従いて、真摯なる人生探求者として、あらゆる障碍に挫けず我等の途に踏み出すべきであらう。そして人間本然の貌に立ちかへり、内部生命から迸り出る真の要求に向かって進むべきである。   (昭和一一年一一月二五日、記)


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『我々は暗黒時代ともいうべき世紀末的苦悶のうちに蠢いてゐたのでもある。がこの一二年に於ける療養所文芸の動きは我々に仄かなる光明を暗示してゐるかのようにも思はれるのである。徐々にではあるが順当な発展を遂げつつあるやうである。一ツの転換期乃至過渡期と見ても差し閊へないだらう、今迄の政策的、機関的文芸から脱出してそのヘゲモニーは我々の手に収められてゐる、そして自己の文学として力強い意欲を見せるやうになつてきた。しかしまだ我々のものとなつてからの文学した期間は極く纔かのものでしかない。』


於泉は、「今迄の政策的、機関的文芸」のことを「暗黒時代ともいうべき世紀末的苦悶」と言っているのではないだろうか。この文章からはそう読むことが出来ると思う。
「政策的、機関的文芸」とは、療養所の中で文学が奨励され、ほどほどの自己表現によって、癩患者としての苦悩を慰める、文学は、療養所側にとって慰安事業であったのである。そして、その文学は、検閲があり、思想統制めいたものがされていたのである。
そういうことに敏感なインテリには堪え難いプライドを傷つけられてきたのだと思う。北條民雄も徹底して検閲を嫌った。於泉はそれを「暗黒時代ともいうべき世紀末的苦悶」と言い放ったのだと思う。
この評論が書かれたのが昭和十一年十一月です、この時期を療養所文学の「転換期乃至過渡期」と於泉は見ています。
北條民雄の入園で発足した「文学サークル」が昭和九年の末に出来ています。昭和十年は、北條民雄の「いのちの初夜」が、文学界から発表され、大きな反響を呼んでいる。若い於泉が、


 『今迄の政策的、機関的文芸から脱出してそのヘゲモニーは我々の手に収められてゐる、そして自己の文学として力強い意欲を見せるやうになつてきた。』


この時期、このように、希望的観測を述べていることでも分かるように、全生園では、文学への希望、期待の、烈しい熱が盛り上がっていたと思われる。その、中心的な存在に、北條がこころの友とする、東條が居ることは間違いがない。
東條もしきりにこの時期、「四季」「文学界」「蝋人形」「詩人時代」などの一般誌に投稿し、そしてその中で一般の文学愛好者を尻目にして特別推薦詩人に引き立てられていたりする。


『我々のものとなつてからの文学した期間は極く纔かのものでしかない。
我はまだまだ自己認識自己検討に費した労力は充分とは云へないのである。 』



結果的に、東條の生涯を通してみても、文学が、療養所の入園者自身のための文学であったのは、北條民雄只一人であったのではないだろうか。東條も、北條亡き後(昭和十二年十二月)、一般誌への投稿を打ち切っているようだ。(まだ詳細には調べて尽くしていないが。)
東條のように、インテリで、無口で激しい性格であっても(光岡良二が東條の人物評をこのように書いている)、於泉の言う「 自己認識自己検討 」、「 真摯なる人生探求者 」としての文学の道を、挫折しているのである。
その理由に、日本が太平洋戦争に突入していって、思想的に、日本国中がイメージの貧困化したということも、大きな理由にあると私は思う。日本男子が、国家存亡の時、療養所という社会の扶養者という引け目が、東條の思想を痩せさせたと思う。一般誌自身が、思想的に痩せている。療養所は、一般社会より一層そういう環境に弱かったと私は想像する。東條の生きた時代が悪かったということに尽きるように思う。

最後に、もう一度、於泉の求めた文学は、実現し得なかったけれど、於泉たちが理想とした文学論を読んで、彼らの無念を、噛みしめたいと思う。


 『「暗さ」を取り除くことのみ汲々としてはならない。余りに「光」を求むることのみ急であつてはならない。我等は深長なる考慮のもとに不断の思索を怠らず、慥かりと大地を踏みしめて、この現実を凝視しその中に自己の真の貌を発見してゆかなければならない。「汝の立つ所を深く掘れ。そこに必ず泉あり」と教えるニーチェの後に従いて、真摯なる人生探求者として、あらゆる障碍に挫けず我等の途に踏み出すべきであらう。そして人間本然の貌に立ちかへり、内部生命から迸り出る真の要求に向かって進むべきである。』