東條耿一の生涯と作品

フランシスコ・ザベリオ、これが東條耿一の洗礼名です。15歳の時、神山復生病院のレゼー神父より、洗礼を受けました。このカトリックの教えが生涯にわたり東條のこころの柱になっています。

東條耿一は、1912年(明治45年)4月7日、栃木県鹿沼に生まれました。

六人兄弟姉妹の五男ではないかと思われます。きょうだい六人(養女の姉を含めると七人)のうち、三人がハンセン病を発病しています。全生園には、妹の立子と一緒に入園していました。

「癩者の父」(「聲」昭和16年1月号)によりますと、東條の発病は、15歳ですが、その二,三年前から顔に斑紋があったようです。家には、次男の兄がハンセン病を発病しており、東條は、小さい頃からずっと父の、兄への所業を見て育っています。

東條の生家はもともと、造り酒屋の裕福な家であったらしいですが、火災にあい身代を潰してしまいました。東條の記憶には、せまい長屋住まいの中で、次男の兄が押入れのなかに住まわされ、病が世間に知れないよう、世間の目を恐れて、汲々と悩み苦しむ家族の姿ばかりが記憶に残っています。そうしたなかに、東條自身も、発病しました。

父は、「人間に生まれて人並みの身體を持てず人並みの生活も出来ない者は、生きていても本当に詰まらぬ。生きている資格がない、長く生き恥を晒すよりは、一思いに死んだ方がましだ。死ぬには一分とはいらない、剃刀で一寸咽を切れば万事解決される、お前にやる勇気がなければ、父が咽喉を切って手本を示そう。」と死を迫り、夜ゆっくり寝ていられなかったと書いています。

父に死ね死ねと攻め立てられて、家を出奔していた兄は、身延山深敬園から神山復生病院に流れてゆき、そこから手紙で所在を知らせてきました。兄に呼ばれて、神山復生病院に、昭和2年8月30日に、東條も入院します。

親に死ねと攻められ、生きる希望を全く失っていた15歳の多感な東條が、神山復生病院で生き返ったのだと思います。

神山復生病院は、1890年(明治23年)フランスの宣教師テストウィード神父によって設立されました。すべてフランスの資金によって設立され、パリミッションのカトリックの教えによって運営され、西洋的な情感が色濃く病院内にあったのだろうと思います。


      

          昭和3年頃の神山復生病院の正門

東條が洗礼を受けたレゼー神父は、第五代院長です。もともとフランスの貴族の生まれで、明治初期に日本に宣教師として来日され、日本各地を伝道して回られ、晩年自ら志願して、神山の院長になられました。昭和五年に亡くなられており、いまも、神山復生病院の墓地に眠っておられます。体格のとても大きく、声も大きい、口角泡を飛ばす熱弁の説教をされたそうです。著書に「真理の本源」という改訂版も出て、版を重ねたご本も残っています。


東條が入院している頃、後にナイチンゲール賞を受けられた井深八重さんが、看護婦の資格を取って、レゼー神父を私淑して、戻っておられていたはずです。井深さんがちょうど30歳頃だと思います、英語の教師をしていた英語力で、レゼー神父と患者とを繋ぐ橋渡しをされていたそうです。東條も、井深さんの看護を受けながら、信仰を得ることができたのだろうと思います。



 中央の方が井深八重さん

しかし、東條は、翌年の昭和3年4月12日に、入院から僅か8ヶ月余りで、顔の斑紋が消えたのを、癩が直ったように両親は喜び、退院をせがまれ、止む無く退院しています。

郷里に戻り、線香工場に就職し、大楓子油を打ちながら、この注射が当時唯一の治療薬で、注射はとても痛いそうです。注射の跡から人に気付かれるのではないかと気の休まらない脅えた日々を送っています。だんだん、復生病院の思い出も、洗礼の感激も忘れ、自暴自棄になり、刹那享楽に、酒を飲み、女と遊ぶ日々に堕ちていきました。

数え20歳の春、徴兵検査を受け、当然体の異常を発見されて落ちてしまいます。家にも帰られず、誰にも告げず自殺行に出ます。薬を用意して飲みましたが苦しくて吐き出してしまい、死に切れず、人に捕らえられるように全生園に収容されます。昭和8年4月21日のことでした。その後すぐに、同病の妹に、「心配しないでこちらに来るように」と手紙を書き、二週間後に妹、立子も全生園に入ります。そのとき妹立子は、「兄は明るくなっていた」と感想を述べています。きっと、ハンセン病でも人目を気にしないで生きられる場所があって一時的にホッとしたのでしょう。

当時、全生園では、治療費を自分で収める〈相談所患者〉と、東條のように収容されて入る〈一般寮舎〉とがありました。東條が収容された同じ年のひと月早く、昭和8年3月に、相談所患者として、光岡良二が東大二年を休学にして、入院しています。

園内では相互扶助ということで作業が強いられていましたが、東條は当時最も重労働と言われ、やり手の少なかった不自由者棟や精神病棟の付き添い夫を失明するまでずっとしています。

また、園内では、文芸活動が奨励されており、「山桜」は大正8年に創刊され、その後月刊されるようになってきていました。文芸特集号として選者による選考も随時あり、特に、詩は佐藤信重という詩人が昭和7年頃から作品を読み、講評を書いて、指導をしています。佐藤信重は「詩の哺育者」と呼ばれているほど、多くの詩人を育てました。東條は佐藤信重の指導のもと、ハンセン病という最も過酷な受難を自ら癒すための自己表現として詩を急速に習得していきました。

そして、東條が全生園に入った1年1ヶ月後の、昭和9年5月18日に、相談所患者として北條民雄が入ってきます。北條と東條、この名前の近しいことでも分かりますが、ふたりは決定的に、宿命の出会いをしているのです。北條は、日記のなかに東條のことを「いのちの友」と呼んでいますが、東條にとってもそれは同じことでした。光岡良二は、「いのちの火影」で、東條について次のように書いています。

『東條耿一は、同じ病で兄の入院していた富士岳麓の神山復生病院に少年時を過しており、そこで身につけた西洋的なミッション病院の情感と、郷里の下野の荒々しい野生を身体の中にひそめた、無口で、はげしい青年で、来た頃は絵、音楽、詩、何にも手をつけ、器用であった。彼は妹と前後して入院してきた。北條と最も親交を結ぶことになったのは彼であった。直情的な気性のはげしさと、虚無的な心情、そうした二人に共通したものが彼らを結びつけたのだろう。<中略>彼は病勢が早く進み、盲人になるに及んで、少年時に植えつけられたカトリック信仰に入って行った。』

と、あまり好意的とは思えない感想を述べています。
北條は、気性の激しさを外に出しますが、東條は、激しさをうちにひそめた青年だったようです。

昭和10年に、北條民雄を中心とする「文学サークル」が結成されます。内田静生、東條準(東條耿一)、十条號一(北條民雄)、岸根光雄(光岡良二)、於泉信雄、フモト・カレー(麓花冷)の初め六人集として結成されますが、すぐに、北條の傲慢さと、フモト・カレーの施設側に媚びた態度にそりが合わず、フモト・カレーが抜けて五人集になったようです。

昭和11年2月号「文学界」に、川端康成の推薦で北條民雄の「いのちの初夜」が掲載され、大きな反響があり、北條は、その年の文学界賞を取ります。そのことで、全生園では、一層文学に熱が入り、東條も文学に、文学だけは、ハンセン病でも差別されることがなく才能があれば世に出ることも出来る、自由があると期待したと思います。北條民雄の在園した4年間が最も全生園の文学熱が盛んな時代だったのではないでしょうか。長い全生園の歴史の上からみても、文学の花が咲いた一時代だったと思います。

東條の詩作する場は、 園内作業の、病棟の付添夫の机でした。「柏舎」に入っていましたが、12.5畳の部屋に8人が棲む雑居部屋では、一人の思索は難しく、作業場の机が創作の場になっていました。北條民雄の昭和11年6月28日の日記に「東條がA・Gの所から本箱を貰ってきて盛んに本を並べ出した。半分くらいは僕が呉れてやった本であるが、しかし彼は楽しそうに本を並べている。じっと見ているうちに僕はなんとなく涙ぐましいほど彼が気の毒にもいとおしく思われた。勿論、これといって値のある本は一冊もない。それでも彼は、右に置いてみたり左に立ててみたりしながら、なるべく立派に見えるように骨を折っている。彼にはこうしたこと以外に何にも喜びがないのだ。あの狂病棟の一室で、毎日毎日狂人たちと暮らしながら、その部屋を自分の部屋と定め、粗末な机と貧弱な小さな本箱を眺めては、豊かな喜びを味わって詩を書いている彼。僕は今日ほど彼に友情を覚えたことはない。彼に本をやったことをこの上なく嬉しく思った。」と書いています。北條の日記によって東條の文学環境を知ることが出来ます。        
また、この頃ではなかったでしょうか、東條が、コッサール神父に「キリストが十字架に磔柱になろうが、どんな死に方をしようが、私には別にかかわりのないことである。」と言ってしまったのは。神父様は呆れて東條をじっと見つめていたが「あなたの云われることが真実だったら、私がはるばる日本に来た意味もないことになるのです。」と言われたらしい。東條の文学へ寄せる期待が、このように言わせたのではないかと思います。しかし、東條は、神父様の云われることを深く胸に刻み、すぐに反省をしたのではないでしょうか。

目に大きな不安を持つ東條は、昭和11年に妹立子の親友、文子と結婚をしています。当時全生園では女のもとに男が通う通い婚でしたから、妹は、男女のそうしたことに戸惑ったようですが、やがて、それを通して急速に大人になったと回想しています。文子さんの人柄について、立子さんは、「貞淑でつつましく、献身的に兄に仕えた。仕えるということは、この義姉の姿をさしていうのであろう」と言っています。

また光岡は、「文子さんは、近代女性史のなかで著名な人の姪であった」と著書に書いています。しかしそれ以外のことは、文子さんについて、生年月日も、亡なった日も、一切の記録が不思議にも全生園に残っておりません。ただ、カトリック愛徳会では、いまも文子さんの命日近くのミサにおいて、東條の妻として、名前が呼ばれています。ただそれだけの痕跡しかありません。

東條は、目に絶望的な悩みをもっていました。失明すれば、文学を諦めなければならない。詩を書くこと、文学をすることは、生きることでもあった当時の東條には、詩が書けなくなるということは死に等しかった。文子さんに結婚を断られると死ぬしかないと、北條に心配をかけています。そうして、東條は文子さんと結婚したのです。詩「桐の花」(昭和11年9月号)は、文子さんへ寄せる思いが、詠まれているのではないかと、私は思っています。この作品から、東條は、東條環から東條耿一に名前を変えています。当時結婚と言っても初めは通い婚で、しばらくすると一緒に住む宿舎が与えられたようです。

文学的には、東條は、三好達治に私淑しており、三好達治の同人誌「四季」に、北條民雄の経済的支援を受けて、加入していました。昭和12年に、詩「青鳩」、「靄」、「樹樹ら悩みぬ−北條民雄に贈る―」の三篇が掲載されています。しかし、三好達治との間に感情的な何かがあり、東條はすっかり失意し、投稿を止めてしまいます。

北條とは、日記も見せ合い、何でも語りあいました。「霧の夜の風景に詠める歌」(昭和12年「山桜」6月号)に、

  激しい議論の後 友は去り 私は暫くをこの美しい風景に見入る
  君は口の酸つぱくなるほど人間を説いた 偉いと思ふ しかし
  君はあの病床の夥しい肉塊を知つて得よう さうして自己を
  生き乍ら腐つて行く亡んで行く肉体に
  何の精神 何の立派な統一性があらう
  否定し給へ 否定する事だ 否定し去つた後にこそ
  新しく生れる血の滾りを覚え
  肉の孕むのを知るだらう ああしかし…

とあります。何を議論したのでしょうか? 私は、人間と神の存在の議論ではなかったのかと思います。北條の生存中は、東條も教会へ足を向けなかったようですが、東條の胸の中では神の存在はしっかりと位置していたと思います。詩「夕雲物語」など東條の信仰がよく作品に反映されていると思います。東條は、北條にも神の存在を認めてもらいたいと思ったことでしょう。東條はカトリックですから、死は裁きの日でもあり、「復活」の喜びでもあります。それを、東條は北條と共に浴したいと思ったに違いありません。しかし、北條は、信仰は現実逃避麻薬のようなものというところに立ち、最期まで信仰は持ちませんでした。

北條が亡くなったのが、昭和12年12月5日です。北條が書いていた日記は、お互いに日記を見せ合ってきた、東條に預けられました。しかし、川端康成から「北條民雄全集」を編むので、遺稿を全部すべて送るようにという要請を受けます。

北條の日記は、大学ノートに書かれた「全生日記」と昭和12年の最晩年に書かれた「柊の垣にかこまれて」という当用日記がありました。全集が編まれた時、その当用日記のみ、その筆跡が違うことが謎になっていました。それは、東條が筆写して、検閲を逃れるために、文子の父親に託し、川端康成のもとに郵送された為だったのです。その日記には天皇批判も書かれており、それが検閲されれば没収は必然であり、北條民雄全集という企画も、川端康成先生にも災禍が及んでしまう、それを東條は恐れたのかも知れません。
その上に、北條の直筆のものを遺品として、東條の身辺にどうしても残しておきたかったのかもしれません。東條は、北條の遺骨のかけらを箱に入れて、北條の日記と共に、生涯身近に置いていました。
北條は、検閲を嫌い、園誌「山桜」にはあまり作品を出しませんでした、直接、川端康成に原稿を送り、川端に認められて「文学界」に発表することが出来ました。北條のいた時代のみ、療養所の文学は、比較的、純粋に文学が出来た時代だったと思います。東條は、昭和12年2月号「初春のへど」で、「現實はもつと負担されねばならないのだ。・・・・・私の詩作は負担である義務である。」と言っています。ハンセン病の発病による宿命を文学で乗り越えようとしています。

北條の亡くなったあと、日戸修一による北條批判がもち上がります。日戸修一は、全生園の医師であり、北條の生存時代は北條と親しく交わっていますが、昭和14年3月号「医事公論」に、「療養所は文化機関ではない。ああいう全集を余り思慮なしに出した川端康成氏等の軽率な罪はとにかく非難していい。余りいい癩文学などは実際から言うと必要ない。黙って患者を収めて、ぢっとして消滅する日を待てばそれでよかろうというものである。」などと書いている。療養所内の文学環境は大きく変わってしまったのではないでしょうか。療養所の文学が、施政者のプロバガンダに利用される傾向が強くなっていったように思います。北條と共に純粋に文学をした、東條にとってこれは大きな失望であったに違いありません。昭和13年9月号に「鶯」という詩があります。

    捉はれて
    小さな籠の明け暮れも
    障子圍ひや 温室住居
    外は牡丹の雪降るに
    春ぢや
    春ぢや
    と教へられ 思はず
    ケキョ……
     知らずに
    ホケキョ……
    と啼くいてみた
    嗚呼やつぱり生命の限り
    歌はにやならん 私の性

とても皮肉な詩だと思います。「春ぢや 春ぢや と教えられ ・・・ ホケキョ…と啼く」プロパガンダでも何でも歌わなければいられないと吐露しているのではないでしょうか。

そうした苦しい詩作のなかで、「夕雲物語―その二」(昭和13年10月号)、「一椀の大根おろし」(昭和14年9月号)という東條の代表作が作られています。

昭和16年にはいると、東條の詩はぐっと減ります。昭和16年1月号の「天路讃仰」以降、没するまでたった3篇の詩しかありませんが、表現が大きく変化しているように思います。美しく象徴された韻律の響きも良いものから、そういうことにまったく配慮をしない、自分の心象を素朴に生々しく表現するものへと変わっています。東條にとって立派な詩であるということに意味を持たなくなって行ったのではないかと思います。詩への価値観が大きく変化をしたのだと思います。
それと同じくして、カトリック誌「聲」へたくさんの手記を書いています。

「兄は、晩年、いままでの詩も絵も日記もすべて焼いてしまって、信仰ひと筋に入っていった」と妹立子さんが書いていますし、遺稿「訪問者」にもそのことが暗示されています。東條が文学をしていた時代のものを焼いたのは、なぜなのでしょうか?いつだったのでしょうか? 昭和15年11月号「散華」に

      詩心迷ふ
    言にいひてさびしきかな
    もだしゐてなぐさまぬかな

昭和13年の「鶯」の詩の時とは全く異なる悩み、詩自体に東條は行き詰まっているようです。「天路讃仰」(昭和16年1月号)は、信仰が美しい詩になっています。しかし、その後の「枯木のある風景」(昭和16年2月号)「落葉林にて」(昭和16年3月号)では、一変して深い悩みを表出しています。
そして、東條の最後の詩は、「病床閑日」(昭和17年7月号)です。そこでは、また静かないのちの歌が詠まれています。

文学は、自意識の世界、神という絶対者より個、自分がどう考えるかと言うことにあると思います。東條の作品には、キリスト者であるにも拘わらず、仏教的思想の作品、東條にとっては異宗教の作品がいくつかあります。「盂蘭盆」(昭和十三年十月号)「木魚三題」(昭和十四年十二月号)「奥の細道」(昭和十五年六月号)など。これらは東條の、自意識、詩人としての自負ではないでしょうか?その自意識を見つめるとき、キリスト者である東條は、神を絶対視していない自分に深く負い目を抱かざるを得なかったのではないだろうか。そして、ついに神と東條の詩とが一体になって「天路讃仰」(昭和十六年一月号)という詩がうまれています、信仰が美しい詩になったと私は思いますが、文学にかけてきた東條の内面はまた別の思いがあったのではないでしょうか? ひとつになるいうことは、東條にとって、文学に意味をなくすことではなかったでしょうか?
文学か神か選択をしなければならない、自分の病の言われ無き苦しみ、その負担を負ってくれるのはイエス・キリストをおいて他にない、文学も負担を負ってくれるものではあったが…。
昭和12年の「初春のへど」に、「義務の文学」と言うものを書いています。これが東條の生涯を見るとき、東條の意識がはっきりと表されていますので、注目します。

「人間は生れ乍らにして負担を輕くする義務をもつてゐる。宇宙は負担に滿ちてゐる。われわれは義務の哲學、義務の思想、義務の行動を採らねばならない。私の詩作は負担である義務である。さうして私が私の義務を遂行し了はつた時、私は死ぬであらう。」

負担を負うために文学をする、詩作をすると書いています。そして義務を遂行し終わったときは「死ぬ」であろうろうとも書いています。負担を負う義務は、昭和12年には文学でしたが、昭和15年頃の東條にとって、信仰生活のなかで負うことも出来たわけですが、しかし、それは私たちが想像する以上に辛いものであったのだろうと思います。

文学をすることは、自分の信仰を問うとき、やはり「怯懦」ではないかと、東條は昭和16年に結論づけたのではないだろうか。遺稿「訪問者」に「われ怯懦にして、おん身を疎み」とあります、それが、東條が、身を裂かれるような思いで到達した結論だったのだと思います。

伊藤秋雄の追悼記に「
如何にして魂の安住を得ようかと、歌に迷ひ、句に彷徨ひ、生活を眞劔につきつめた態は、はた目にも痛々しい程であった。だが氏は遂に目的を得た。最後に行き着いたのは、聖なるカトリック信仰であった。そこに以前にも増して落ち着いた態が見られ、深々と柔らかなものに埋まってゐる安らかな姿が見られた。とあるところからも、文学をしている時代の、東條の深い苦悩を、察することが出来ます。
東條は「落葉林にて」に、身の裂かれる思いをメタファーに表現して、詩との決別を図ったのではないでしょうか。東條が、作品や文学書まで焼いてしまったのは、その後だったのではないかと思います。

妹立子は、昭和15年に、東條が少年期に入園し受洗もした神山復生病院から来た、渡辺清二郎と結婚します。渡辺清二郎は、岩下壮一神父から受洗した敬虔なキリスト者で、戦後ずっとカトリック愛徳会の代表を務め、自治会の会長もするほどの人望篤い人でした。東條が、文学を捨てて、信仰生活に深く入るとき、よき相談相手になっていたことでしょう。
「癩者の改心」は、「いずみ」(昭和28年12月号)に載った遺稿ですので、いつごろ書かれものか分かりません。そのなかに東條が、「私は癩になった事を深く喜んでゐる。癩は私の心を清澄にし、私の人生に真の意義と価値を与えてくれた。癩によって私は始めて生き得たのだ。私を選び給ひし神は讃むべきかな」と言っています。そして、ヨブ記のことが書かれていますが、ヨブの如く生きる、全ての受難を身に負い、神を讃えて生きることを喜びとしたのではないでしょうか。


文学を捨て、ヨブの如く生きることを選んだ東條が、晩年、どのように暮らしたのでしょうか? 東條は、小鳥を飼うことが好きでした。東條は、昭和12年1月号の「初春のへど」に、三好達治の次の詩を引用しています。

   日が暮れる この岐れ路を 橇は發つた……
    立場の裏に頬白が 啼いてゐる 歌つてゐる
    影が増す 雪の上に それは啼いてゐる 歌つてゐる
    枯れ木の枝に ああそれは灯つてゐる 一つの歌 一つの生命(いのち)
                   ――三好達治開花集より――

病が重なって、慰みで小鳥を飼いはじめたのではなく、もともと、小鳥が好きだったのでしょう。愛唱する三好達治のたくさんの詩の中からこれを引用しているのは、小鳥に対する思いが若い頃から深いことを示しているように思います。「山桜」には随筆「駒鳥」(昭和15年3月)、「聲」には「鶯の歌」(昭和16年6月号)という文章もあり、また詩の中にもたびたび小鳥が出てきます。「鶯の歌」では、東條の口笛で、鶯が、掌に乗ってホーホーと啼き、籠にもどって、ケキョケキョと続ける、芸までするように小鳥と親しんでいます。また、
『「鶯は三段に鳴きわけるといふが、どうだ鳴きはわかるかな」と義父はまた煙草を吸付けて云つた。
「どんな風に鳴くのが良いのか、さつぱり解らないんです。ただ鳴き聲を聞いてゐれば楽しい方なので」
「それでいゝんだよ。小鳥を飼ふ心はなかなかいゝもんだよ。然し小鳥に飼はれてはいかんし、小鳥を飼ふのでもいかんね。そのどちらでもあつて、どちらでも無い心、この心を會得する事は、人の道、人生の妙味を會得する事にもなるんだ」 
私は一語一語を深く味わった。』

と書いていますが、義父との会話のようにして東條の小鳥を飼う心を説明しているように思います。小鳥を飼うことにも、東條の自意識が出過ぎないように、自制しているしているのではないでしょうか。小鳥は小鳥らしく、自然体の中で小鳥を飼いたいと思っているのでしょう。それが、人の道であり、神の道だと信じていたのでしょう。
東條の、晩年の、生活の様子を伊藤秋雄が「道を求めて」(昭和16年「山桜」11月号)に書いています。
「あれ以後の氏は信仰生活に浸りきつてゐるやうに見える。その生活態度は実に落付いたものだつた。そして日増に募る信仰心は何物をも除けて、ひたすら美はしきものへと近づきつつあるやうに思はれた。「詩も書かなくなつた、近頃は殆どペンを持たぬ」と、いふ。書かなくても生活し得るやうになつたのであらう。いや生活そのものがすでに詩の世界なのであらう。「ペンを持たぬ詩人になりたい」とは私も希求する処の願望である。」

と書いています。「あれ以降」というのは、東條が作品を全て焼いてしまったことを指しているのではなかと思いますが、確信はありません。ただ、この稿は昭和16年11月号ですから、晩年の東條の落ち着いた精神生活を伺うことが出来るように思います。この頃、目はほとんど失明に近い状態でしたが、園内でも比較的恵まれた環境の「山の手地区」と呼ばれていた、北條が住んでいた「秩父舎」に近い「赤城舎」に棲んでいたようです。文学の詩を愛するように小鳥を飼い、その小鳥とともに東條の精神意識は自由に自然へ飛翔してゆき、静かで、、落ち着いたものになっていたのではないでしょうか。

妻の文子さんは、昭和17年1月に急性肺炎で亡くなっています。東條は、後を追うように、その年の9月4日に没しました。

東條は、ハンセン病というもっとも厳しい荊の道を、個我を紛れさすことなく、宿命から逃げず、若いときは文学に、晩年は信仰ひと筋に、その生涯は壮絶な闘いの連続であったと思います。この世の負担を全身全霊で引き受けながら、それでも精神は清澄さを最期まで失わず、30歳の天命を全うして逝ったと思います。
そして、東條の、「負担は負わなければならない」という、厳しくも浄らかな精神は、私たちに、美しい詩を遺して逝ってくれました。(了)







top page