神山復生病院とレゼー神父

東條は、昭和2年(1927年)8月30日〜昭和3年4月12日まで、わずか8ヶ月足らずでしたが、神山復生病院に入院しています。そのときの復生病院の院長が、レゼー神父でした。レゼー神父の年代を上げてみますと、

   1849年4月27日フランスの北部ダンケルクに生まれる。

    1873年 パリミッションとして来日。番町、新潟、佐渡、仙台、甲府、関口、北海道、など各地で伝道生活。

   1897年 ドルワール・ド・レゼー著「真理の本源」第一版を著す。

   1917年(大正6年)神山復生病院第5代院長

   1930年(昭和5年)復生病院で死す。(81歳)

となっています。

レゼー神父は、晩年の13年間を自ら志願して神山復生病院の第5代院長になります。そして、患者から「癩患者の慈父」と敬われ、当病院で亡くなられ、いまも、病院の墓地に患者と共に眠っておられます。

私は、この墓地を訪ねましたが、国立療養所の納骨堂とは、まったく趣が違います。

  

  花に囲まれたレゼー神父のご遺体            レゼー神父のお墓    

レゼー神父の墓の隣にもう一つ墓が小さく写っていますが、それは、患者さんの墓です。神父も患者もここでは分け隔てがありません。

 

レゼー神父は、復生病院のことを、次のように、昭和312月の「天主公教会」に書いています。ちょうど、東條が入院していた頃のことです。

 

「彼らの生活はどうであろうか。彼らの精神状態はどうであろうか。誰でも初めて癩病院を訪なうものは想像する。そこはどんなに悲しみの場所であろう。どんなに物愁はしい所であろう。きっと胸の悪くなるような汚い所であろう」と。

このように淋しい場所と考えられた病院に、足を入れることを恐れない人々は、いつもそこに至って驚きの眼を?るのである。庭や小径はきれいに清掃されている。夏であれば百花咲き乱れた花園で取り巻かれてをり非常に生き生きとして大きな農園のように見える。時々諸所に働いている癩病者の楽しげな笑い声が聞こえることは、特に彼らに驚異を起こさせる所のものである。悲しげな顔はここで殆ど見出されない。この快活さはどこから来るのであろうか。こういう悲惨な境遇にあって、これは甚だ不自然に見える。

 

神山復生病院は、もともとカトリックの癩患者救済事業として、完全に外国からの寄付で、フランス人のテストウィッド神父によって作られた施設である。癩患者はこの世の最も重い十字架を負い生きなければならない。カトリックの教えには、復活して来世の幸福が約束されている。私の訪ねた神山復生病院の墓地に「ここに眠りて復活を待つ」というレリーフがありました。その復活は、癩患者に、苦難の中生きてゆくための、たった一の希望を抱かせてくれるものであろうと思います。復活のその日まで、よりよく生きようと、みな努力することができるのだと思います。

そのうえに、レゼー神父は、どうしたら癩患者が生き生きと暮らすことができるか、たいへんにこころを砕かれたようです。

まず、作業は1日7時間とし、病院を一つの家として、自分自身のために働く、家族(人)を喜ばせるために働くということを説き、どんな作業をするかは各自の自主性に任せている。

生活が潤おうように、娯楽を積極的に奨励している。音楽隊「復生バンド」、演劇「天国座」などあったようである。当時のものが残っています。また、↓のような旗を持って、賛美歌を歌いながら、院内をみんなで行進をする、聖体行列というようなことが、頻繁にあったようです。資料館に、いろいろ写真や使用したものが残っており、展示されています。とても鮮やかな色彩のこころが華やぐ旗だと思います。行進しながら賛美歌を歌うことは、きっと心身ともに、清々しい気分に、なることでしょう。そのほか、箱根へ度々ピクニックに出かけ、テニスなども盛んに競技されたようです。レゼー神父は患者と共にそれらを楽しまれたようです。
それは患者にとって、神様への確かな道筋を感じたことでしょう。

       

また、神山は地盤が岩盤で、代々の院長は、水にたいへん苦労されたようです。水は衛生的にも、とても重要です。井戸掘りに何回も挑戦して、ことごとく失敗をしたようです。多額の寄付が、井戸掘りに消えてしまいました。また、水汲みの作業は重労働です、そこで、フランスから動力ポンプを購入している。また、女性の重労働の一つに洗濯がありますが、洗濯機をアメリカからわざわざ取り寄せて作業を、少しでも楽になるよう、患者の環境にとてもこころを砕いていたのである。

「真理の本源」の昭和9年の改訂版が、幸いにも古書にあり、いま私の手元にあります。、レゼー神父への弔文がそこに載っている。そこから、レゼー神父の人柄を引いてみます。

 

師は宣教に有益なる日本語の修得と諸科学の研究とを絶たなかった。上は純粋に宗教的な事柄から、下は植物学、地質学に至るまで熾烈なる研究心を持って探求せざる分野はなかった。

患者は師の赫突たる信仰に不断に接して、信仰を獲、癩病院は変じて正に一個の修道院となるの観があった。

「癩者の慈父」と呼ばれることを好んだドルワール師は、説教台に立っては金口聖ヨハネに似て信者を泣かしめる「力の説教家」であり、演壇に登っては天地の理を其の懸河の弁に依って縦横無尽に説いて已まざる「明るき雄弁家」であり、また其の稀に見る文才に託して深遠なる哲理を万人に理解せしめえた「筆の人」でもあった。

 

この「真理の本源」は15版まで版を重ね、改訂版まで出ている。科学に長じている、筆の人、力の説教家というのは、この本の力強い説得力を述べているのでしょう。私もすこし読みましたが、とても有無を言わせぬ理詰めの力強い文章です。
この本のレゼー神父の表現は、どこか、東條の重々しい文体に通じているように感じています。
とにかくレゼー神父の説教は、口角泡を飛ばすごとく豪快で、説得力のあるものだったようです。

東條が15歳の、智にも(東條はたいへんに学業に秀でていた、高等小学校を主席で出ているのである。)愛にも、義にも、美しいものにも飢えていた東條は、吸い取り紙のように、レゼー神父からいろいろはかり知れない教訓と感化を受けたことでしょう。




  
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