光岡良二と妻芳枝
岩波新書、歌集「木がくれの実」多摩全生園武蔵野短歌会編、(昭和28年3月)

この歌集は、まず、多摩全生園創立40周年記念事業の一つとして持ち上がったものである。その多摩全生園の武蔵野短歌会は創設以来20数年を経ており、嘗て、昭和9年に合同歌集「曼珠沙華」を編んでいる。40周年記念として、それ以後の作品を集めて編纂をすることになり、収録人数は68名にのぼる、その68名の作家のそれぞれ自選歌を、この合同歌集のために選出した編集委員5名が、自選した歌を互選して採否を決め、1377首を採集したものである。

こうして歌集となる原稿が揃ったところに、突然、園側の予算が取れないことになり、合同歌集は頓挫する事態になった。落胆したなか、岩波書店に相談を持ちかけたところ、「原稿を読んでみて」ということになり、原稿を送り、そして、思いもかけず、岩波新書として出版されることになったのである。

阿部知二が、『「木がくれの実」に寄せて』という、今からするとハンセン病に対する認識不足のようなものも多少感じるが、隔離を容認した上でではあるが、患者への理解を求める、当時としてはたいへん温かい言葉を、熱意を込めて書いている。
この歌集「木がくれの実」の編集委員5名のうちに、光岡良二がいる。

わたしは、この歌集が、療養所の合同歌集でありながら一般の出版物になった、岩波新書として出版されたということは、大変当時として感銘的な、快挙だったのだろ推察しますが、もう一つ、気になるのは、昭和28年といえば、光岡が、一時社会へ復帰していたのを、ハンセン病が再発し、再入院のため全生園に戻った年が昭和23年、それから5年後のことなのである、この「木がくれの実」が出版されたのが。

光岡が、昭和45年に書いた北條民雄の評伝「いのちの火影」の巻末に、自分自身のことを回想しているものに、心にひっかかることが書かれていた。
光岡は、昭和11年に山室のぶ子と結婚をしている。
手足の不自由な妻を置いて、昭和17年ごろに、社会に復帰したのである。そして、その社会で、恋愛もし、同棲までしている。ところが、病気が再発し、昭和23年に、療養所に戻るのである。そのことを、ありのまま、光岡自身が、「回想」に書いている。「妻とはもとのようになるのには5年の歳月が必要であった。はたしてほんとうにもとのようになれたかどうか、わからない。」と書いています。
光岡が編集の一員として加わっていた、「木がくれの実」に、妻、山室のぶ子の歌がある。それが、わたしには、どんな歌を詠んでいるのか気にかかるのである。一部歌を引いてみます。

   針をもてばおのづから心さだまりてをみなの性のかなしさ思ふ

   つつがにて籠れるときにはろかなる人の俤たつがかなしさ

   いささかの未練あらずと言はなくにやがて断つべき足洗ひつつ

   幾度か父は来ませどつひに遂に言わず別れし足断ちしこと

   憤りかはた悲しみか別れ来て栗の花散る夜道に泣きぬ

   頼りがたき人の心と知りし故かくばかり我孤独を欲りす

   音に出て泣かましものを耐へたへて朝の光のまぼしさに立つ

   気をかねて嗚咽をのめばくくくくと我がのどもとにかなしき音す

   凌霄かつらの朱の色よし泣きなきしのちの心の安けさに見つ

   人の罪を無限に赦せとのらし給ふわれは三度びをゆるしがたきに


如何お読みになられましたでしょうか。切々と女の悲しみ、夫の不実を悲しむ妻の悲しみがひしひし迫ってきます。女性らしい感受性の豊かな歌だと思います。
山室のぶ子は光岡芳枝とも名乗っていたようですが、生まれは静岡、光岡良二と同じ年の1911年生まれです。

8歳で発病、20歳まで自宅療養をします。芳枝には姉がおり、その姉は小学校の教師をしているとき発病し、芳枝は姉と一緒に全生園に入ります。その後、妹も、入院してきます。ハンセン病に呪われたような一家ですが、両親は大変に温かな人で、上の歌にもあるように、よく面会に訪れています。芳枝は、8歳で発病して、学校へも行かず、家に籠もっていたので、家と療養所以外の世界を知らない、少女のような人であったらしい。学校には行きませんでしたが、読み書きは、教師をしていた姉より習い、人並み以上に文芸に秀でていたようです。何しろ、全生園きっての秀才、光岡と結婚をしているのですから、そこからも、芳枝のことは推して知ることが出来ると思います。
芳枝の姉は、原田樫子と結婚をしている。原田樫子は、1900年生まれ、1919年から全生園に入り、1986年に亡くなっている。全生園の療友から「お父さん」と慕われ、「山桜」の巻頭言や、自治会など断続的に務めた。たいへんに人望の高い人であった。光岡は、原田と義兄弟の間柄であった。
光岡は、ハンセン病の後遺症が、写真で見る限り、ほとんどありません。芳枝は、手足の後遺症が重かったようで、この歌にもあるように、昭和23年に両足を切断しています。

光岡は、妻のことを、「彼女の方が私などより遥かに不撓不屈であった。そして純粋であった。私を荒廃させることなく今日に至らしめたと思う。」と、芳枝への感謝を遺稿集のあとがきに書いています。芳枝は昭和56年に、亡くなるのですが、その一年後には、光岡は、芳枝の遺稿集として「みづきの花」を、短歌と小文をまとめて上梓しています。

  人の罪を無限に赦せとのらし給ふわれは三度びをゆるしがたきに

芳枝の「ゆるしがたき」と夫を恨む歌を、光岡が編集に加わっていながら、「木がくれの実」に載せている。
その後「みづきの花」にも、芳枝の詠んだこれ等の歌が、そのまま、ありのまま、載せて芳枝の遺稿集を編んでいる。それは、大らかと言うのだろうか?
私は、そこに光岡の文学に掛ける並々ならぬ思いを見ます。
多摩短歌会の合同歌集は、「木がくれの実」の次に、「輪唱」が昭和34年に編まれます。そのまえがきを、光岡が書いていますが、それを少し引用します。

ハンセン病短歌と言うものが、特殊な作家圏として、歌壇ではとりあげ、論じられることが通例になっているが、そのような特殊な分野をなすものとして見られ、或いは甘やかされ、同情され、又は隔離された指定席を設けられることを私たちは好まない。私たちの希いは、一切の限定語や修飾語をもたない、ただひろい<短歌>の世界の中での作品として、読まれ、評価されること以外にはない。』

と書いています。
光岡は、隔離された中にあり文学に情熱を燃やしました。
文学だけは一切の限定を許したくないのでしょう、風見さんも、同じようなことを言っていらしたのを思い出します。
妻の短歌についても、光岡は、その文学性を、表現の自由を、私情を越えて、しっかり理解をしていたのではないでしょうか。
「木がくれの実」を読みながらそう思いましたし、光岡の不実は妻、芳枝をかくも悲しませましたが、文学だけは、光岡は、純粋にやったのだろうと思いました。
「ゆるしがたき」と憤った芳枝だが、その後にも光岡の女性問題は続いたようですが、だんだん諦めの気持ちからか波風はあったようですが、芳枝が亡くなるまで一緒に暮らしたようです。
最後に、光岡良二の歌集「水の相聞」から、妻を詠んだものを数首引いておきましょう。

永遠の漂泊者よと吾を言いぬ妻なればふかき呻きのごとく

おかっぱ髪の汝を娶りたる日のままの混りなき愛しみが還りていたる

いつか吾ら赦し合えるを知りいしも生くる日短き予感なりしか

身のめぐり今誰もいず地の上につづまりは汝と二人生き来し





        
光岡良二「古代微笑」より



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