山田瑞恵さんがご紹介くださった海人の歌、「新万葉集全十一巻」に撰集された11首について、鑑賞してみました。

 

>昭和13年に改造社が明治・大正・昭和三代にわたる新万葉集全十一巻を企画しましたときに、一人二十首以内で公募がありました。その第一巻に、明石海人の歌が十一首入選しましたが、その歌を紹介します。

  

まず、これは、応募作品なのだと言うことを踏まえて読まないと、@Aの歌など、海人の真意かと誤解してしまうように思います。

「新万葉集」というのですから、万葉集がどういう性質のものであるかということを、海人は、考えて歌を詠み、応募していると思います。選者が、どういう基準で選をするか、海人はある程度考えて作っていると思います。療養所の多くの歌人が天皇を歌に詠んでいるのは、みな、その点を考慮しているからでしょう。ただ、
  つれづれの友となりても慰めよゆくこと難きわれにかはりて   貞明皇太后
この歌への感謝の返歌というだけでないと思います。みんな、「万葉集」の選集だということを考えて、天皇の歌を詠み応募しているのでしょう。
自分で編む歌集ではない、応募は、選ばれることに意味があるのですから。

そこを考えると、20首出して、11首入選しているということは、すごいことなのでしょう。海人にとっては、一種の挑戦、療養所にあって、ここに海人ありという意気で応募したのではないでしょうか?、それにしても、抜群の実力と、撰集の読みで、11首も選ばれたのでしょう、見事だと思います。

 

@そのかみの悲田施薬のおん后今も坐すかとをろがみまつる

 

Aみめぐみは言はまくかしこ日の本の癩者に生れて我が悔ゆるなし

 

問題になる2首ですが、私は、海人の本心ではないと思う。「日の本の癩者に生れて我が悔ゆるなし」、選ばれるためのポーズなのだと思います。そして、海人の芯の強さがよく出ていると思います。海人は、こう言い放っても、揺るがない精神を持っている人なのだと思います。

この新万葉集の編纂は、天皇崇拝、愛される皇室の鼓舞に一役買っていたのではないだろうか、昭和13年といえば、日中戦争の勃発した翌年ですから、国中が戦時体制に入っていった年ですので、その目的で編まれた「新万葉集」であったのではないかと思います。しかし、海人のこうした歌をまんまと選ぶ選者・・、というのも今からするとすこし滑稽に見えます。

それにしても、こうした配慮が出来る、海人という人は、とても社会性のしっかりした人、時代を読める人、社会に啓けて明るい人であることに驚かされます。らいを病み、療養所にいても、自分とい存在を社会のどこに置かなければならないのか、現状として、家族に言われるまでもなく、ほんとうは海人自身が一番知っていたのではないだろうか・・・瑞恵さんが海人の歌には「すべなさ」が頻出すると書かれていましたが、それは海人らしいと思いました。「村井メモ」NO.6に海人の「歌日記」を抜粋して載せていますが、娘の死を葬式のすべてが終わって知らせてきたことの嘆きが書かれていますが、やがてそうするしかなかった妻に同情しています。そうしたあたりにも、海人の人柄として通底していると思います。

 

     ――父の訃、子の訃共に事過ぎて月余の後に来る。帰り葬はむよすがもなくて 

B送りこし父がかたみの綿衣さながら我に合ふがすべなさ

 

さて、ここに出てきた「すべなさ」ですが、「術なし」は「ほどこす方法がなく切ない」と広辞苑にもあります。
父の葬儀に、癩者ゆえに出ることが出来ず、その歯がゆさと、虚しさから、父の形見の綿入れが送られてきて、着てみて、自分にちょうど合う、そのことが、喜べない。どうして喜べないのか、そのこころが、海人自身でほどこす方法がなく切ないのである。自分で自分の心を持て余している海人なのである。

 

 

C童わが茅花ぬきてし墓どころその草丘に吾子はねむらむ

 

D世の常の父子なりせばこころゆく嘆きもあらむかかる際にも

 

療養所にいて思うのは、いつもいつも吾子のこと、亡くしてしまった子を心ゆくまで嘆きたい、が、ひとりでは心もとない。妻と共にこの悲劇を嘆きたい、それが出来ないらい者なのである。それは、とても辛いことだと思います。海人が憐れです。

 

Eたまたまに逢ひ見る兄や在りし日の父さながらのものの言ひさま (面会)

 

父が亡くなったことによって、兄が面会に来てくれたのではないでしょうか? 療養所では、面会にきてくれる親族が居る、海人は、恵まれていたのだと思います。「ものの言いさま」と海人は、兄が父のような偉ぶった(?)言い方にすこし不服そうなのが、兄への親しみ、微笑ましいと思いました。

 

F梨の実の青き野径に遊びてしその翌の日を別れきにけり

 

家族で梨もぎをして遊んだ翌日に、海人は明石養生病院に入られたのでしょうね。家族と別れ、療養所に入った日というのは、その後ずっと鮮明な記憶に残るものでしょう。風見治さんが、療養所に入られたのは1952年5月である。麦秋が燃え盛る景色であったそうだが、毎年5月になると、その景が瞼に蘇えってこられるそうでです。

 

G子を守りて終らむといふ妻が言身には沁みつつなぐさまなくに

 

「なぐさまなくに」、慰めるすべがなかった、というふうに解釈しました。愛も受身でしかいられない、それがらい者の、らい者ゆえの深い哀しみなのだろうと思います。

11首の中では、この歌が、愛妻家の海人にとって、もっとも強烈な思いなのではないでしょうか。

 

 

H監房に狂ひののしる人のこゑ夜深く覚めて聞くその声を (病友)

 

「監房に狂ひののしる人のこゑ / 夜深く覚めて聞くその声を」、歌は「こゑ」で切れていると思います。

(病友)とあるが、どこの療養所にも監房があり、管理者によって恣意的に刑罰が科せられていたらしい、ハンセン病の検証会議の中にも報告がありましたが、長島愛生園は療養所の中でも、刑罰の厳しい方である、「監房に狂ひののしる人のこゑ」、入園者はいつも何事にも監禁等の刑罰に脅えていた、夜目覚めて聞く声が実際の監禁の声か?自分の脅えの声か、その両方なのだろうと思う。この歌は療養所の現実をくっきり映した歌のように思います。

 

   ――眼神経痛頻りに至る。旬日の後眼帯をはづせば視力すでになし 

I拭へども拭へども去らぬ眼のくもり物言ひかけて声を呑みたり

 

失明の恐ろしさ、手足の感覚を無くしている体に失明は、海人にとってどんなに恐ろしいものであったか? 「声を呑みたり」、こう表するほかにないもどかしさを、海人は抱きながら一首にしたのではないだろうか。

 

 

J更へなずむ盗汗の衣やこの真夜を恋へばはてなしははそはの母よ

 

寝汗をかいて寝間着を替えてもらった幼き日のことを思い出しているのでしょう、「はてなし」、望郷の思い、母への思い、そして、いま、ひとり異郷にいる海人の寂しさ、こころ揺さぶられます。

 


           
               花すだれの上野 五重塔






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海人の「新万葉集」入選歌、11首

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