味地日出男、「一つの喜び」
  一つの喜び

おずおずと治療待合室に入り来し一人の盲
杖にたずねて行きあたりの隅を
そつとさぐりて腰を降ろしぬ

親しみを画に見つつ歩み寄り
並びてかけし顔丸き男
言葉を出さずそつと盲の手を取りき

眼球は痩せて小さき眼をしばたたき
腫みたる指に神経あつて
盲は不意の友を読まんとせる

互いに手を取り合えば
二人の呼吸のひそかに通う
盲はその体臭を聞きて名を云いしが
男は尚も黙をつづくる
一ずなる盲の心今は迷いて
腕ひき寄せてもの云いねと云う
ああ吾も男の名を知らず
囁きて告ぐる術なし

ひらめきし盲の六感は
男の名を遂にあやまたず
云いあてられて明るく笑えば
耳に響きし其の声を懐かしみ
盲はそもそも満足気に笑いを浮かべぬ
ああ今は
見守りていし吾の心も軽く何か楽しき



味地日出男 (1913,8,5〜1945,3,17)
兵庫県出身。1933年外島保養院に入院、1934年栗生楽泉園に委託。詩のほかに短歌もある。

皓星社、ハンセン病文学全集 6 詩の1 より引用。

  一つの喜び

みなさんはこの詩をどのようにお読みになったでしょうか?
ことばが硬いですね、和歌をつなぎ合わせたような表現です。
腰を降ろしぬ
手を取りき
読まんとせる
黙をつづくる
もの云いねと云う
術なし
浮かべぬ
何か楽しき
短歌も作っていたようですので、自然に、こうした表現になっているのでしょう。
ところで、「吾」は誰なのでしょうか?
私は、盲の「杖」ではないかと思いました。
「杖」が擬人化されて「吾」として、この詩の主人公になっているように読みました。


おずおずと治療待合室に入り来し一人の盲
杖にたずねて行きあたりの隅を
そつとさぐりて腰を降ろしぬ


「ごめん下さい、失礼します」「ここに坐れるかしら」など杖に話しかけている様子が見えるようですね。

 親しみを画に見つつ歩み寄り

これは、面白い表現ですね。「親しみを画に見つつ」ってどういうことなのでしょうか?
私は、顔丸き男が、盲に視線を向けないで、絵画に視線を向けたまま、盲に近づいて行ったのではないかと思いました。

並びてかけし顔丸き男
言葉を出さずそつと盲の手を取りき
眼球は痩せて小さき眼をしばたたき
腫みたる指に神経あつて
盲は不意の友を読まんとせる

互いに手を取り合えば
二人の呼吸のひそかに通う
盲はその体臭を聞きて名を云いしが
男は尚も黙をつづくる


細やかな描写がいいですね。盲と顔丸き男の動作や、その心理がよく描かれているように思います。

一ずなる盲の心今は迷いて
腕ひき寄せてもの云いねと云う
ああ吾も男の名を知らず


「 腕ひき寄せて」これは、顔丸き男の手と共に、杖も引き寄せているのですね。
「吾も男の名を知らず」、杖が、困っているところが面白いですね。

囁きて告ぐる術なし

ひらめきし盲の六感は
男の名を遂にあやまたず
云いあてられて明るく笑えば
耳に響きし其の声を懐かしみ
盲はそもそも満足気に笑いを浮かべぬ
ああ今は
見守りていし吾の心も軽く何か楽しき



杖が「吾の心も軽く何か楽しき」と喜んでいます。
はじめ間違えても、、お互いをなんとなく確認しあうことが出来る。
そして、お互いが分かりあえて、それだけで満足気の笑みを浮かべる。
ただそれだけの詩ですが、そこには、人と人の根源の姿があるように思います。

にんげんが、お互いに分かり合える、それは楽しいこと、その当たり前のことが、ハンセン病の人々には出来なかった。そのことを思うとき、この詩を書いた味地日出男のこころを推して知ることが出来ると思います。我々に、そっと、そのことを問いかけているように思います。


          
                        曼珠沙華



          
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