林房信(全生園院長、医学博士)昭和10年

 (略)同病相憐、相互扶助の精神に基づき、病友愛寄り相扶けて一大家族を造り、感恩奉謝を念とし、病者としての本分を尽くし誠に意義のある療養生活を送りつつあります。そして、いまだ療養所に救われないで自宅に或いは路傍に悲惨な生活を送り悩み苦しみつつある多くの病友らの速やかに救われんことを祈念いたして居ります。然して又これ等不幸なる病者も療養所に入ることを切望しております。数年或いは十数年以前は自ら進んで入院する人ははなはだ少なく、そしてその多くはあらゆる治療を試みつつ次第に重症に陥り如何とも為す術なきに至り初めて入院を乞う有様であったのでありますが、近来はこれに反し発病早速に入院を希望す人々が著しく増加して参りました。これは吾吾の久しく待ち望んでいた所でありまして誠に一大快事であります。斯くてこそ真に治療の効果も予防の実績も挙がるのでありまして、この好現象の来たりしは偏に上御皇室の広大なる御仁徳の賜物であります。然るに現在各療養所は超満員でありまして、折角の希望者を拒絶しなければならない場合があることはまことに遺憾に堪えない次第であります。
患者一万を救うことによって30ヵ年間にわが国の癩は根絶することの判明せる今日、しかもその費用は67千万円でありまして、一ヵ年、2百34十万円で足りるのであります。今日世界の一等国を以って誇れる我が国に於いてこれが不可能でありましょうか、可能でありましょうか。この好期を逸して又何時の日かこの悪疾の根絶が出来ましょう。国民挙げて現在、並びに後世の為め奮起せんことを切望して止みません。
(全生園文芸誌「山桜」6月号より引用)

  http://6527.teacup.com/4800/bbsより
「太田正雄」昭和15年
「小島の春」の映画評
 (前略―)
 猫が草中の蟲をねらふやうに、すりが混雑の中の袂を窺ふやうに、何としつこく此女医は不幸の家のまはりを徘徊することぞや。此人はさうして其家に、其人に、其村に幸福を與へると信じてゐる。實際其家、其人、其村は此爲めに幸福を得たらうか。其幸福を得べく船に乘る病人が、なぜあのやうに人々の號哭によつて見送られるのであるか。心有る人は此動畫を見て、更に深く思を此事に馳せるであらう。
 其人を幸にするのが、其人を再び出でざる可き島に送ることに在るであらうか。一體我國には内地だけでもニ萬三萬のさう云ふ病人が居るらしい。その一人一人を船に乘せ、號哭せしめて、島に送ることが、其人を、其進む國土を幸にする唯一の道であらうか。彼のいぢらしい女医はさう信じて居る。そして笊で水を汲むやうにしては一人、二人の病人を拾ひ出して、島に送つて居る。其いたましい努力が人を悲しませる。
 なぜ其病人はほかの病氣をわづらふ人のやうに、自分の家で、親、兄弟、妻子の看護を受けて病を養ふことが出來ないのであらうか。
 強力なる権威がそれは不可能だと判断するからである。人々は此病氣は治療出來ないものとあきらめてゐる。それ故隔離が唯一の根絶策だと考へる。そしてかの女医も、病人には治療を勧めながら内心では治療の無効を嘆いてゐるのである。病人には氣の毒である。然しそれがお國の爲めである。それが此女医の心であると我々は忖度する。そして其切ない心に同情する。
 此動畫は徹頭徹尾あきらめの動畫である。(―中略―)
 癩は不治の病であらうか。それは實際今まではさうであつた。然し今までは、此病を医療によつて治療さしむべき十分の努力が盡されて居たとは謂へないのである。殊に我國に於ては、殆ど其方向に考慮が費されて居なかつたと謂つて可い。そして早くも不治、不可治とあきらめてしまつて居る。從て患者の間にも、それを看護する医師の間にも、之を管理する有司の間にも感傷主義が溢れ漲つてゐるのである。明石海人の歌は絶望の花である。北條民雄の作は怨恨の焔である。而して「小島の春」及び其動畫は此感傷主義が世に貽つた最上の藝術である。
 (―中略―)
 癩根絶の最上策は其化學的治療に在る。そして其事は不可能では無い。「小島の春」をして早く此「感傷時代」の最終の記念作品たらしめなければならない。
 此事は啻に「小島の春」を讀み、又其動畫を観て心を傷ましむる見物のみならず、亦敬虔な長い勤務に身を痛めて病の床に臥す其作者にも告げたい。ここに新しい道が有る。其開拓は困難であるが、感傷主義に萎へた心が其企圖によつて再び限り無い勇氣を得るであらう。そのやうな熱烈な魂が、また此癩根絶策の正道の上にも必要であるのである。
(昭和15年8月10日発行『日本医事新報』第935号「新映画評」より引用)


両医師の「隔離」への考えが大きく違います。

林房信は、隔離推進論。「らい予防法」の中心的人物光田健輔と同じ考えに立っている。
昭和10年と言えば、北條民雄が全生園に入園したのが昭和9年、この10年に「いのちの初夜」を書き、川端康成の推薦もあり、文壇に華々しくデビューし、世に癩の療養所というものを広く知らしめました。北條の「病中日記」は、「いのちの初夜」より私は好きですが、それを読むと、当時の様子がなんとなく分かるが、病の非業さはあるけれど、強制隔離の悲嘆さについては、北條自身自分で療養所に入園しているし、全生園に入院していた4年間のうちに何回も外出している。自殺を決行するためにふるさと徳島まで長期外出もしている。

>近来はこれに反し発病早速に入院を希望す人々が著しく増加して参りました

このように林が書いているが、北條民雄が入院した時、入園者で「友達になると良いでしょう」と紹介され、全生園で共に文学サークルをする光岡良二は、東大の2年の在学中に発病し、治療すればよくなると軽い気持ちで、学生服のまま入園してきたと言われている。
全生園には、治療費を自費で払う「相談所患者」と、なかば強制的に隔離されて入る人と、二通りの在園者があったらしい。北條、光岡らは、自費で治療費を払うグループでかなり自由に、作業などもしないで、外出も厳しく制限されず、生活をしたらしい。
そうした雰囲気が、少しずつ、戦争の影が忍び込むようになると変化してくる。

>患者一万を救うことによって30ヵ年間にわが国の癩は根絶することの判明せる今日

林らの呼びかけにより、その後、療養所の増設、拡張が進められる。
そして、「癩撲滅運動」、「無癩県運動}が声高に叫ばれるようになるのである。
昭和13年には栗生楽泉園に「特別病室」なる恐怖の監房も造られる。
療養所は、昭和16年に国立化し、自費で治療目的で入っていた人たち「相談所患者」は、隔離されて入っている人と、一つに纏められるのである。

そうした、戦争前夜の、思想弾圧の厳しい時代に、出されたものが、太田正雄の「小島の春」の映画評である。
なんと厳しい、批判に満ちた評論であろうか!

>猫が草中の蟲をねらふやうに、すりが混雑の中の袂を窺ふやうに、何としつこく此女医は不幸の家のまはりを徘徊することぞや

らい患者を見つけては隔離をすることへの、厳しい批判がある。


>此人はさうして其家に、其人に、其村に幸福を與へると信じてゐる

小川正子についての感想は、また、稿を改めたいと思うが、彼女は純粋に、太田の言うとおり「信じていた」のだと思う。

>實際其家、其人、其村は此爲めに幸福を得たらうか。其幸福を得べく船に乘る病人が、なぜあのやうに人々の號哭によつて見送られるのであるか。心有る人は此動畫を見て、更に深く思を此事に馳せるであらう。

「なぜあのやうに人々の號哭によつて見送られるのであるか。心有る人は・・・」
その、心有る人だが、昭和16年には、太平洋戦争に突入する、その前年ですから、そんなデリカシーは国民の中になかったのではないだろうか? デリカシーがなかったというのは言いすぎか? 声が出せなかったと言うことかもしれない。戦争というおおきなイデオロギーはお国のためという目的意識ばかりが優先されるのだ。

>なぜ其病人はほかの病氣をわづらふ人のやうに、自分の家で、親、兄弟、妻子の看護を受けて病を養ふことが出來ないのであらうか。
> 強力なる権威がそれは不可能だと判断するからである。人々は此病氣は治療出來ないものとあきらめてゐる。それ故隔離が唯一の根絶策だと考へる。
>殊に我國に於ては、殆ど其方向に考慮が費されて居なかつたと謂つて可い。そして早くも不治、不可治とあきらめてしまつて居る


はっきりと、強制隔離は、意味が無く「権威」が隔離を強制、実行させているのだと、光田らに明らかに対抗している。
しかし、思想弾圧も厳しかった時代ですし、富国強兵の、狂気のように、日本国中がなっていた時代、太田のヒューマンな考えは説得力に乏しく、兎に角、太田の批判はまったく抹殺されてしまったのである。
太田は昭和20年に、40歳の若さで、胃癌で亡くなっている。彼が、生きてくれていたら、これだけはっきりものを言う人であるだけに小笠原登医師とともに、光田の園長グループに対抗して、昭和28年の「らい予防法」は無かったかもしれない、もっと早くに尊厳のある人権の回復が出来たかも知れないなどと、私は思ってしまう。


               
             昭和12年1月号「山桜」 画・和田香苗




      
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