父親
 風見さんは、11歳、小学校5年生に発病し、20歳になるまで自宅療養をされた。自宅療養と言えば、聞こえがよいが、その実は、自宅でひっそり死んでくれというご両親のお考えであったらしい。風見さん自身がETY2003、テレビでそのように話しておられました。
風見さんが20歳というのは、昭和27年です、父親に隠れて、風見さん自身が、長崎市役所に保護願い、療養所へ入所の願いを、自身で書きました。それを母親に、ポストに投函してもらって、熊本の菊池恵楓園に入所されたと、いうことのようです。一般に療養所に入所というと、強制的な隔離のように言われますが、こういうケースもあるのですね。
「鼻も欠け、手足も萎縮して、どんどん病気が悪化しこのまま死にたくない・・とにかく生きたい」と思って手紙を書いたと回想されています。
昭和24年にプロミンの治療が療養所で始まっているので、発病とともにか、もう少し早く、そこまで悪くならないうちに入所していれば、あるいは、後遺症はもっと軽かったかもしれません。
「なぜ、父親が僕を療養所に入れなかったのか?」それが、僕にはまだ、明快に分からないのです。そのことが、50年間いつも心の隅に、引っかかっています、と仰っています。
4月に、鹿児島の絵画展で、風見さんの妹さんにもお目にかかりました。
お妹さんに、そのことを話題にすると、「それは、直をその当時昭和18年ごろは療養所の環境がひどいものだったから、そんなところに入れるのが不憫で、家に置いていたのですよ。」と話しておられて、それを伺って、私まで、ほっと胸をなでおろしました。
しかし、風見さんご本人には、それは、そのまますんなりとそのように受け取れない、そこに、この病のもつ複雑さがあるように思います。後遺症の無念さがふつふつと胸の奥でたぎっているのだろうと推測します。
小説「不毛台地」にハンセン病の主人公の父親が出てきます。その小説だけでしょう、風見さんの小説で、父親が登場するのは。
小説の父親は、飼っている牛を鉄棒で狂ったように殴り、そして、首を吊って自殺してしまいます。
風見さんは、父親の後ろ姿の闇を、いまも身のうちに抱え込んで生きているのであろうと思います。

        不知火や父の影より抜けられぬ    秋

   




   
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