私が、ハンセン病作家の中でもっとも風見さんに惹かれるのは、ご苦労されただろうに、風見さんは、差別、偏見、隔離という社会的被害者の意識で小説を書かれていないところです。
風見さんの不在の街を皆さん読まれて、皆様は、如何な感想をもたれたでしょうか。
とても静かなかなしみ、淡々と一時帰省の時間の流れを、その時間の流れの中に去来する思い出や、母の言葉が書きとめられている、それが私には恨めしく書かれているようには読めない。怒りも書かれてはいない。ただ、そこには矛盾があるだけ。その矛盾が、ぎっと凝視した眼差しで、一般社会の私たちに、「こんなことがあって良いの?」と問いかけてくるように思う。
風見さんの問いかけは、とても大きな衝撃となり、深い悲しみで心揺さぶられる。今後、こんなことはあってはいけないと思う。このような間違いが二度起きないように、しっかり心に刻んでおこうと思う。
風見さんの作品は、すべてに通して、こうしたスタンスで書かれていると受け取っています。
風見さんは、「鼻の周辺」(海鳥社)のあとがきに、次のように書いておられます。

最初に「らい」と診断されてからすでに半世紀が過ぎた。この時間の積み重ねが、私に何をもたらしたのか。私はそこから何を得ようとしたのか。そして何を獲得できたのか。「火山地帯」という同人雑誌に、怠けたり、一生懸命になったりして書きつづけた三十余年にわたる作品が、その片鱗でも語ってくれるのかどうか。

「らい」を病んで生きたというだけで、不幸だったと思われるかもしれない。たしかに苦渋に満ちていた。だが、私はいま、自分は意外と人生を楽しんできたのではないかと、ふりかえってそう思ったりする。正確にはそういう心境に到達しつつあるということであろう。


ETV2003「加賀乙彦 ハンセン病文学者との対話」の映像にも出てきたが、恋人の家、風見さんは、熊本の恵楓園で恋をして、鹿児島に来た。そして、恋人との家を療養所の近くに作り、療養所と恋人の家と二重生活をしている。
療養所に一緒に暮らせば断種は避けられない、療養所の外に家を作って、断種もしないで暮らした。
彼のような人は他にもいたようだ。小説「不毛台地」にも、そうした夫婦のことが書かれている。
風見さんは、隔離政策にも、らいという病気にも精神的に負けていない。自分の生き方を、可能な限りしてこられている。
私は、そういう風見さんを、尊敬する。
72歳になられているが、恋人と何年一緒に暮らせたのだろうか?、恋人と長く家庭を持てなかった、その寂しさは、やはり大きい。その寂しさはあるだろうが、国家によって人生を奪われたということを、風見さんの口からは聞くことは今までなかった。風見さんは、そんな風には生きてこられなかった。「僕は、つねに明日をどう生きるかを考えて生きてきたように思う」といっておられる。
「不毛台地」は薩摩焼の美山が舞台になっている。風見さんは、薩摩焼に大変造詣が深い。島津公お抱えの茶道具としての沈寿官窯の薩摩焼きではない、「用の器」の佐太郎窯を好まれる。朝鮮陶工の400年の苦難の歴史を尊ばれる。手に障害がなかったら、焼き物をやりたいんだけれど・・と仰っている。

 
       黒薩摩              若い佐太郎窯継承者        

                      
そこで、この十年ほど、始められたのが、油彩なのでしょう。風見さんの絵を評して、独習にありがちな,保守性、オーソドックスさ、筆使いの素朴さがあるが、マリーローランサンの絵にも通じる色彩の豊かさがある、もっと自由に、無鉄砲に、不可思議の世界に近づいていかれればいいのに、アンリ・ルソーのように、そうなれば、絵も小説と同じく面白い作品になるだろうと言われる方がおられます。
絵画展は、近年、お話がいろいろ舞い込み、何回も各地で展示されているようです。
風見さんは、らいを病み生きて、自由でおられるとそのことに、私は感銘する。


    
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